純化委員会による査問
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「純化委員会による査問」の解説
ハイデッガーは1945年11月から12月にかけてフランス占領当局によってフライブルク大学において非ナチ化を行う純化委員会の査問を受けた。査問委員はコンスタンティン・フォン・ディーチェ、ゲアハルト・リッター、ランゲ、アルゴイアー、フリードリヒ・エルカースで、7月23日、ハイデッガーは委員会の前で弁明し、アードルフ・ランペ以外の委員はハイデッガーがナチの内的な敵となっていたことから好意的だった。委員会はランペの意見は採用せず、ハイデッガーは1934年以降ナチではなくなっていたと寛大な判定を下した。ハイデッガーはフライブルク大学学長への弁明書で次のように語っている。 私の学長時代に多数の学生がナチズムへとそそのかされた、というあまりに粗雑な主張がくりかえしなされるのであれば、正義のためには、少なくとも次のことをも承認する必要があるでしょう。すなわち、私は1934年から1944年までにあいだ、私の講義をつうじて何千もの聴講者に、われわれの時代の形而上学的基礎を自覚するよう教育してまいりました。そして、精神の世界と西洋の歴史におけるその偉大な伝承の世界に対し、彼らの眼を見開かせてきたのです。 — フライブルク大学学長宛弁明書、1945年11月4日付 ハイデッガーはカール・ヤスパースを頼ろうとしたが、妻がユダヤ人であったヤスパースはハイデッガーがバウムガルテンを密告したこと、同時にユダヤ人の助手ブロックのイギリスへの亡命を手助けしたことなどが書かれて、「ハイデッガーの思考様式はその本質からして自由をもたず、独裁的で、コミュニケーションができないもの」と厳しい評価を含む報告書を送った。1945年秋、のちに映画監督となるアラン・レネがハイデッガーを訪問した。 1945年末にハイデッガーはかつて手ほどきをしてくれたコンラート・グレーバー大司教を訪れ、救援を求めた。大司教の妹が12年も訪問しなかったというと、「私はいま手ひどくその償いをしている。私はもうおしまいだ」と語った。グレーバー大司教は1946年3月8日の教皇ピウス12世への報告書でハイデッガーは真摯に反省しており、敬虔な態度を見せたと報告した。1946年1月19日、純化委員会はハイデッガーの教職活動剥奪と年金減額をフランス軍政当局に提案し、フランス軍政当局は年金削除を命じたが、この追加部分は1947年5月に取消された。 ハイデッガーは元ナチ党員追放裁判で疲労困憊したため、バーデンヴァイラーの精神科医で、ビンスワンガー派に属するヴィクトリア・フライヘル・フォン・ゲープザッテルの診察を受けていた。。1946年当時はフライブルクの家は占領軍の宿営として接収されていたため、トートナウベルクの山荘に住んだ。 1946年と翌年の夏にハイデッガーは『老子』のドイツ語訳に着手した。ハイデッガーはヤスパースへの書簡で、1943年から44年にかけてのパルメニデス講義とヘラクレイトス講義を聴講した中国人蕭欣義(Paul Shin-Yi Hsio)がハイデッガーの思索には東洋のものを思わせると語り、当時老子の翻訳を試みたと語っている。ハイデッガーは老子の「孰能濁以静之徐清。孰能安以動之徐生。(たれかよく濁りて以ってこれを静めておもむろに清(す)むや。たれかよく安らかにして以ってこれを動かしておもむろに生ずるや)。」を漢文のまま書斎に飾っていたという。「言葉の本質」では「道とかタオという語のうちには、思惟しつつ言うことの秘中の秘が潜んでいるのではないだろうか」と述べた。1946年10月、ベルンのペルー大使館秘書官アダルペルト・ワグナーからハイデッガー家は経済援助をうける。 1945年夏よりジャン・ボーフレはハイデッガーに熱烈な書簡を出した。1946年11月10日のボーフレ書簡への返信は1947年、「『ヒューマニズム』に関する書簡」としてベルンで出版され、単行本が1949年に刊行された。 1946年夏、フランス軍政当局はハイデッガーの無期限教職禁止令を指令。これは大学からの免職ではなく、研究教授としての在留を認めたものでもあった。12月、バーデン州文部大臣から大学教職無期限停止令が下された。 1947年8月28日、かつての弟子マルクーゼが亡命先のアメリカから書簡をハイデッガーに出し、ナチズムとの一体化から解放されるためには変化を告知することであると書くと、1948年1月20日の返信でハイデッガーはこうした変化は当時の学長辞任後の講義で行っていたと述べた。さらに「あなたが『幾百万人のユダヤ人をただ彼らがユダヤ人であるという理由で殺害した政府、テロルを日常状態とし、精神と自由と真理という概念と実際に結びついていたすべてを血なまぐさいその反対物へと逆転させた政府』について述べている重大で正当な非難に関して、私はこう付け加えることもできるだけです。『ユダヤ人』を『東部地域のドイツ人』に置き換えるべきであって、そうすれば、同じことが連合国のひとつにも当てはまり、違いは、1945年以降に起こったすべてのことは全世界に知られているのに、ナチスの血なまぐさいテロルはドイツ民族には事実上秘密にされていたということです」と書いた。 1949年2月6日、ヤスパースはハイデッガーとの文通を開始し、以降ハイデッガーの復職に尽力した。1949年3月、フランス軍政局はハイデッガーとナチスとの関係は「服従することなき同行者」「制裁には及ばず」と最終決定した。1949年5月、フライブルク大学評議会はハイデッガーを名誉教授として復権させ、教職活動の再開案を過半数で可決した。 戦後1945年から1949年まで教職活動が禁止されていた時期には、幼少期から親しんだボイロンのベネディクト派修道院でハイデッガーは話をした。ガダマーによればハイデッガー山荘には世界中から多くの「巡礼」が訪れた。 ハイデッガーはフライブルクに住み、春および秋にメスキルヒを訪れ、弟フリッツの家で過ごした。11月11日は聖マルティン聖名祝日をボイロン修道院で祝った。
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