純化委員会による査問とは? わかりやすく解説

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純化委員会による査問

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)

マルティン・ハイデッガー」の記事における「純化委員会による査問」の解説

ハイデッガー1945年11月から12月にかけてフランス占領当局によってフライブルク大学において非ナチ化を行う純化委員会査問受けた査問委員はコンスタンティン・フォン・ディーチェ、ゲアハルト・リッター、ランゲ、アルゴイアー、フリードリヒ・エルカースで、7月23日ハイデッガー委員会の前で弁明し、アードルフ・ランペ以外の委員ハイデッガーナチ内的なとなっていたことから好意的だった委員会ランペ意見採用せず、ハイデッガー1934年以降ナチではなくなっていたと寛大な判定下したハイデッガーフライブルク大学学長への弁明書で次のように語っている。 私の学長時代多数学生ナチズムへとそそのかされた、というあまりに粗雑な主張くりかえしなされるであれば正義のためには、少なくとも次のことをも承認する必要があるでしょう。すなわち、私は1934年から1944年までにあいだ、私の講義つうじて何千もの聴講者に、われわれの時代形而上学的基礎自覚するよう教育してまいりました。そして、精神世界西洋歴史におけるその偉大な伝承の世界対し、彼らの眼を見開かせてきたのです。 — フライブルク大学学長弁明書、1945年11月4日ハイデッガーカール・ヤスパース頼ろうとしたが、妻がユダヤ人であったヤスパースハイデッガーバウムガルテン密告したこと、同時にユダヤ人助手ブロックイギリスへ亡命手助けしたことなどが書かれて、「ハイデッガー思考様式その本からして自由をもたず、独裁的で、コミュニケーションできないもの」と厳し評価を含む報告書送った1945年秋、のちに映画監督となるアラン・レネハイデッガー訪問した1945年末にハイデッガーはかつて手ほどきをしてくれたコンラート・グレーバー大司教訪れ救援求めた大司教の妹が12年訪問しなかったというと、「私はいま手ひどくその償いをしている。私はもうおしまいだ」と語ったグレーバー大司教1946年3月8日教皇ピウス12世への報告書ハイデッガー真摯に反省しており、敬虔な態度見せた報告した1946年1月19日純化委員会ハイデッガー教職活動剥奪年金減額フランス軍当局提案しフランス軍当局年金削除命じたが、この追加部分1947年5月取消された。 ハイデッガーは元ナチ党追放裁判疲労困憊したため、バーデンヴァイラー精神科医で、ビンスワンガー派に属するヴィクトリア・フライヘル・フォン・ゲープザッテルの診察受けていた。。1946年当時フライブルクの家は占領軍宿営として接収されていたため、トートナウベルクの山荘住んだ1946年翌年の夏にハイデッガーは『老子』のドイツ語訳着手したハイデッガーヤスパースへの書簡で、1943年から44年にかけてのパルメニデス講義ヘラクレイトス講義聴講した中国人欣義(Paul Shin-Yi Hsio)がハイデッガー思索には東洋のものを思わせる語り当時老子翻訳試みた語っている。ハイデッガー老子の「孰能濁以静之徐清。孰能安以動之徐生。(たれかよく濁り以ってこれを静めておもむろに清(す)むや。たれかよく安らかにして以ってこれを動かしておもむろに生ずるや)。」を漢文のまま書斎飾っていたという。「言葉本質」では「道とかタオという語のうちには、思惟しつつ言うことの秘中の秘潜んでいるのではないだろうか」と述べた1946年10月ベルンペルー大使館秘書官アダルペルト・ワグナーからハイデッガー家経済援助をうける。 1945年夏よりジャン・ボーフレハイデッガー熱烈な書簡出した1946年11月10日のボーフレ書簡への返信1947年、「『ヒューマニズム』に関する書簡」としてベルン出版され単行本1949年刊行された。 1946年夏、フランス軍当局ハイデッガー無期限教職禁止令を指令。これは大学からの免職ではなく研究教授として在留認めたものでもあった。12月バーデン州文部大臣から大学教職無期限停止令が下された1947年8月28日、かつての弟子マルクーゼ亡命先アメリカから書簡ハイデッガー出しナチズムとの一体化から解放されるためには変化告知することであると書くと、1948年1月20日返信ハイデッガーはこうした変化当時学長辞任後講義行っていたと述べた。さらに「あなたが『幾百万人のユダヤ人をただ彼らがユダヤ人であるという理由殺害した政府テロル日常態とし、精神と自由と真理という概念実際に結びついていたすべてを血なまぐさいその反対物へと逆転させた政府』について述べている重大で正当な非難に関して、私はこう付け加えることもできるだけです。『ユダヤ人』を『東部地域ドイツ人』に置き換えるべきであってそうすれば、同じことが連合国のひとつにも当てはまり、違いは、1945年以降起こったすべてのことは全世界知られているのに、ナチス血なまぐさいテロルドイツ民族には事実上秘密にされていたということです」と書いた。 1949年2月6日ヤスパースハイデッガーとの文通開始し以降ハイデッガー復職尽力した1949年3月フランス軍政局ハイデッガーナチスとの関係は「服従することなき同行者」「制裁には及ばず」と最終決定した1949年5月フライブルク大学評議会ハイデッガー名誉教授として復権させ、教職活動再開案を過半数可決した戦後1945年から1949年まで教職活動禁止されていた時期には、幼少期から親しんだボイロンのベネディクト派修道院ハイデッガーは話をした。ガダマーによればハイデッガー山荘には世界中から多くの「巡礼」が訪れたハイデッガーフライブルク住み、春および秋にメスキルヒ訪れ、弟フリッツの家で過ごした11月11日は聖マルティン聖名祝日ボイロン修道院祝った

※この「純化委員会による査問」の解説は、「マルティン・ハイデッガー」の解説の一部です。
「純化委員会による査問」を含む「マルティン・ハイデッガー」の記事については、「マルティン・ハイデッガー」の概要を参照ください。

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