コンラート・グレーバー
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ナビゲーションに移動 検索に移動コンラート・グレーバー(Conrad Gröber、1872年4月1日 - 1948年2月14日)は、ドイツのカトリック教会聖職者。
経歴
フライブルク大学卒業後、教皇庁立グレゴリアン大学で神学博士号を取得。エッテンハイム助任司祭、カールスルーエ聖シュテファン教会助任司祭、コンスタンツのコンラディハウス(大司教区付属寄宿舎)院長(1901年 - 1905年)、コンスタンツ三位一体教会司祭(1905年 - 1922年)、コンスタンツ大聖堂、フライブルク大司教区指導委員(1922年 - 1925年)、司教座聖堂参事会員(1925年 - 1931年)を歴任し、1931年マイセン司教、1932年フライブルク大司教、オーバーライン管区首位大司教となった。
ベルンハルト・ヴェルテが秘書を務めていた。
哲学者マルティン・ハイデッガーとも親交があった。
著書
- Geschichte des Jesuitenkollegs und -Gymnasiums in Konstanz, 1904
- Der Altkatholizismus in Meßkirch, 1912
- Das Konstanzer Münster. Seine Geschichte und Beschreibung, 1914
- Die Mutter. Wege, Kraftquelle und Ziele christlicher Mutterschaft, 1922
- Reichenauer Kunst, 1924
- Heinrich Ignaz Freiherr von Wessenberg. Freiburger Diözesan Archiv, 55, 1927 und 56, 1928
- Christus Pastor. Bildnisse des guten Hirten, 1931
- Kirche und Künstler, 1932
- Nationalkirche? Ein aufklärendes Wort zur Wahrung des konfessionellen Friedens, Herder, 1934
- Vaterland und Vaterlandsliebe, 1935
- Handbuch der religiösen Gegenwartsfragen, 1937
- Die Reichenau. 1938
- Der Mystiker Heinrich Seuse, 1941(中世の神秘家ハインリヒ・ゾイゼについて)
- Das Leiden unseres Herrn Jesus Christus im Lichte der vier heiligen Evangelien und der neuesten Zeitgeschichte, 1946
- Aus meinem römischen Tagebuch, 1947
関連項目
コンラート・グレーバー(Conrad Gröber)
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「コンラート・グレーバー(Conrad Gröber)」の解説
1872年4月1日生-1948年2月14日没。1891年から1893年までフライブルク大学神学を専攻、ローマ司祭専修コースのあるローマ教皇庁立グレゴリアーナ大学に進学、1898年神学博士を取得。エッテンハイム助任司祭、カールスルーエ聖シュテファン教会助任司祭、1901年から1905年まで母校コンスタンツのコンラディハウス(大司教区付属寄宿舎)院長、1905年から1922年までコンスタンツ三位一体教会司祭、1922年から1925年までコンスタンツ大聖堂、フライブルク大司教区指導委員となり、1925年から1931年まで司教座聖堂参事会員となり、コンスタンツでは最も有名な人物であった。1931年マイセン司教、1932年フライブルク大司教、オーバーライン管区首位大司教。中世の神秘家ハインリヒ・ゾイゼ(Heinrich Seuse)について著書を書いた。1933年、それまで対立していた国民社会主義と和解した。それはボルシェヴィズムへの不安のためであった。1933年4月28日フライブルク教区信徒会議でグレーバー大司教は「わずか数週間前には、まもなく全ドイツを席巻し、支配するものと我々が恐れぬわけにはいかなかった社会主義と共産主義がいまや囚われの身となり、あるいはあわただしく逃亡の途にあります。極端な無神論とプロレタリア的自由思想は、すなわち唯物論とマルクス主義体制との、これら攻撃欲にみちた従者どもは、純然たる宗教的な意味においては片付けられたも同然であるように思われます」と述べた。グレーバー大司教にとってファシズムは「現代において最も力強い精神運動」であった。中央党機関誌ケルン国民新聞はグレーバー大司教が「新しい国家(ナチスドイツ)を拒否してはならない、これを肯定し、迷うことなく、尊厳と真摯をもってともに働くべきである」と述べたと報じた。グレーバー大司教はナチスドイツを公然と肯定した最初のドイツ人司教となった。グレーバー大司教は多血質かつ胆汁質で感情を爆発させる傾向があり、親衛隊友の会(Freundeskreis Reichsführer SS)に加入し、1937年ハインリヒ・ヒムラーによってグレーバーは除名された。その後1940年、グレーバー大司教は迫害されるユダヤ人を救助するためゲルトルート・ルックナー博士に救援を委任して資金援助も行い、何人かをスイスへ出国させることに成功した。ルックナーはゲシュタポに逮捕され、ラーフェンスブリュック強制収容所に送られたが、生き延びた。
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