ハイデッガー家と文化闘争の時代
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「マルティン・ハイデッガー」の記事における「ハイデッガー家と文化闘争の時代」の解説
ハイデッガーの生まれた南ドイツはカトリックの勢力が強い地域であったが、またバーデンには自由主義の伝統もあり、1815年には代議制が採用され、1848年の革命の牙城でもあり、教会は自由主義陣営と激しく対立していた。1854年に州政府がフライブルク大司教を逮捕した時には紛争は先鋭化し、カトリシズムの住民は教会には従順であったが国家には反抗的で反プロイセンであり、ナショナリズムよりも地域主義が強く、反資本主義、反ユダヤ主義、郷土主義が根付いていた。1870年にバチカン公会議で教皇の不謬性教義が決定されると、ビスマルク宰相は文化闘争(Kulturkampf)を開始する一方で、ピウス9世ローマ教皇はドイツカトリック中央党を支援し、ドイツ帝国国家とローマ・カトリックの対立が激しくなった。メスキルヒ村では上流階級を占めた「古カトリック派(旧カトリック派)」が形成されると自由主義的な近代化を目指し、ローマ・カトリック派と対立した。古カトリック派はバーデン政府から援助を受けており、バーデン政府から聖マルティン教会の利用許可を獲得したため、ローマ・カトリック派は撤退せざるをえなくなった。1875年、メスキルヒのローマ・カトリック派は城の近くの果物倉庫に新しい教会を設立し、ローマ・カトリック派であったハイデッガーの父はその一翼に自分の仕事場を設け、この臨時教会でマルティン・ハイデッガーは洗礼を受けた。親戚のコンラート・グレーバー博士もローマ・カトリック派であった。コンラート・グレーバーは代表的なローマ派で、当時の対立の実相について「裕福な旧カトリック派の子供たちは貧しいカトリック派(ローマ派)を除け者にし、彼らはもとより司祭にもあだなをつけ、さんざん小突き回し、もう一度洗礼を受けさせてやるといって水飲み場の桶に頭を突っ込んだりした。」「旧カトリック派の教師は悪人と善人を区別して、カトリックの生徒たちに黒い病人とアダ名をつけ、罰を受けずしてローマの道を歩むことは許されないと、これを腕力沙汰で思い知らせていた」、旧カトリック派は全員離教しており、メスキルヒで就職するには旧カトリック派に参加しなければならなかったと回想しており、このような時代のなかハイデッガーの父フリードリヒは不利益があったが節操を守り、ローマ派にとどまった。メスキルヒではローマ・カトリック派は古カトリック派の三倍の教徒数であり、バーデン政府も1895年にはローマ教会がかつての資産を取り戻し、ハイデッガー家も教会広場沿いの家へ戻った。父フリードリヒは、対立していた古カトリック派に寛容の精神で接した。ハイデッガー家では寛容をふくめた「すべてにおいて節度を守ること」は不文律であった。
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