ハイデッガーの呼びかけ 存在の問題こそ最も重要である
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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「ハイデッガーの呼びかけ 存在の問題こそ最も重要である」の解説
詳細は「存在の問い」および「実存主義」を参照 この問題を有名にすることに大きく寄与したのは20世紀のドイツの哲学者マルティン・ハイデッガー(1889年 - 1976年)である。ハイデッガーはこの問いを、哲学における最も根源的な問い・第一の問いであるとして、その重要性に着目し探求を行った。以下、1953年に出版されたハイデッガーの講義録「形而上学入門」の第一章の冒頭文である。 なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?これがその問いである。この問いが決してありきたりの問いでないということは推察できる。「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」‐これは明らかにすべての問いの中で第一の問いである。 第一の問いといっても、もちろんいろいろな問いの時間的継起の順番から言って第一だというのではない。個々人も諸民族も長い間の歴史の流れの途上で多くの事柄を問うものである。彼らは「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いにつきあたるまでに、様々な事柄を探索し、追及し、吟味する。つきあたるということが、この疑問文を言い表された文として聞くとか読むとかいうことだけでなく、この問いを問うこと、すなわちこの問いを成立させ、これを提出し、どうしてもこの問いを問わざるをえないような状態になるということを意味するのだとすれば、多くの人々は、この問いにつきあたらない。だがしかもなお!誰でも一度は、いやおそらくときどき、そうとはっきり知らないうちにこの問いの隠れた力にそっと触られるものである。たとえば深い絶望の中にあって、ものごとからすべての重みが消えうせようとし、あらゆる意味がぼやけてしまうとき、この問いが立ち現れる。おそらくそれは鈍い鐘の音のように、ただ一度撞き鳴らされ、現存在の中へと響き入り、次第にまた響きやむだけかもしれない。心からの歓呼の中にもこの問いがある。というのは、この場合すべてのものごとは変わってしまい、あたかもそれがいまはじめてわれわれの周囲にあるかのごとくになり、われわれはそれがあり、しかもそれが現にあるとおりにあると考えるよりも、むしろそれがないのだと考えるほうがかえって考えやすいような気がするからである。或る種の退屈の中にもこの問いがある。この場合、われわれは絶望からも歓呼からも等しく遠ざかっているが、いつまでたっても何の変哲もなく、存在者がいつものごとく、まるで砂漠のようにのさばっていて、われわれは存在者があろうとなかろうとどうでもよいような気持ちになるからであって、そういう場合には特別の形で再びこの問いが響き始める。なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?と。 — マルティン・ハイデッガー 『形而上学入門』(1935年に講義/1953年に出版) 第1章「形而上学の根本の問い」、川原栄峰訳 ハイデッガーはこの問いと全生涯をかけて関わったが、いかなる解答も提案しなかった。そもそもどのようにしたら答えることができるのかを示すための努力を行うこともなかった。これはハイデッガーがこの問いを「意味の問い」として捉えていたことによる。つまりハイデッガーは「なぜ存在しているか」という問いについて、その根拠となる事実を実証主義的、客観主義的に答えようとするものではなく、その意味、つまり「存在の意味」を答えるべき問いと捉えていたためである。このことはハイデッガー的に言えば、この問いは「存在的」に答えられるべきものではなく「存在論的」に答えられるべきもの、ということになる。この両者の差をハイデッガーは存在論的差異と呼んでいた。そして彼は後期思想において、この問いへの普通の意味での解答は不可能であるけれども、この根本的な謎と向き合うことが大切とした。そしてそうした態度はもはや命題的にあらわされる何かではなく、むしろ詩に近いものとして表されるものであり、初期ギリシャの哲学者の断片にその理想を求められるとした。
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