存在論的差異
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:40 UTC 版)
「マルティン・ハイデッガー」の記事における「存在論的差異」の解説
「存在論」を参照 人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的 ontischenなあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的 ontologischなあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。この差異は存在論的差異(ontologische Differenz)と呼ばれる。1928年夏学期講義では「存在の理解のうちには、存在と存在者のこの区別の遂行が存している。この区別は、まずもって存在論というようなものを可能にする。したがってわれわれは存在理解というものをはじめて可能にするこの区別を存在論的差異と名づける」と述べている。 1929/30年の「形而上学の根本諸概念:世界-有限性-孤独」では次のように述べられた。 存在と存在者との区別の問題は、われわれがこの問題を存在論にゆだね、そのように名づけることによって、早々とその問題系のうちで妨げられてしまっている。結局、われわれは逆にこの問題をより一層徹底的に展開しなければならないのであり、それは、われわれがすでにその理念からして、不十分な形而上学的問題系としての存在論を退けるという状況に陥る危険を冒してもそうしなければならないのである。ではその場合、われわれはなにを存在論の代わりに置くべきなのか。例えば、カントの超越論哲学か?超越論哲学もまた転倒するにちがいない。それでは、存在論の位置になにが入り込むべきか。これは軽率でとりわけ外見上の問題である。というのも、結局、問題一般を展開することによって、われわれが存在論をなにか別のものによって置き換えようとするその位置というものが失われるからである。存在論とその理念もまた転倒するほかはない。それはまさに、存在論の理念を徹底化することが、形而上学の根本問題系を展開することの必然的な一段階であったからなのである。 — 「形而上学の根本諸概念:世界-有限性-孤独」,全集Ga 29/30巻, p522 理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。
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