ハイデッガー 存在の開示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/10 16:16 UTC 版)
フッサールは、フレーゲと共に心理主義を批判し、現象学を提唱した人物である。真理とは志向的対象が自体所持において根源的に与えられていることであるとしていた。アリストテレス以来多くの者が思惟と実在の一致、認識と存在の一致などデカルト的な主観/客観の二項対立図式を前提に対応説をとってきたが、現象学においてはかかる図式自体が放棄されており、真理は現象学的還元によって与えられるものとなる。彼自身は真理の基準として明証説をとったが、彼の弟子のハイデッガーは現象学を方法論として存在論に応用することで新たな真理論を打ち立てた。 マルティン・ハイデッガーは、ニーチェを形而上学の完成者であるとしてその真理論を批判し、プラトンに始まり現在に至るまで存在者のみに目を奪われ、存在を忘却する存在忘却の歴史に陥っているとした。彼は、まず、『存在と時間』において、真理の語源ギリシア語のアレーテイアーに遡って考察し、真理とは隠されたものを戦い奪う、つまり「隠れなさ」という意味であるとした。ついで、現象学的解釈学・基礎的存在論を展開し、人間は現存在であると同時に世界内存在であって、そもそも主観と客観の区別はなく、環世界に存在している。頽落して世間に埋没して存在する非本来的な現存在は、世間や自己の見方に執着しているので、内世界において出遭う存在者は非本来的な隠れたあり方をしている。したがって、生は、ニーチェが述べるように人間が認識しえるものではないが、真理は生に従属するだけのものではない。本来的な現存在が自身をこの執着から解放すれば、存在者が全体として自らを本来のあり方そのままで現れる。これが真理であり、その本質は自由である、とした。さらに、彼は、『ヒューマニズムについて』において、言葉こそ存在の家であり、言葉のうちにこそ真理は宿り、存在の明るみが性起する限りにおいて存在を己を人間に開示する。あらゆる知の根拠である存在の開示は、生の生成過程における生の自己差異化、二重性の表れであり、現存在が脱自的に存在者に身をさらしているときに真理は体験され、感じられるのであり、驚き、感動、落涙などを伴う、とした。 ハイデッガーの議論を踏まえて西部邁(評論家)は真理についてこう述べている。「探し当てられるべきは実在(真理)なのだが、実在は言葉を住(す)み処(か)とし、そして自分という存在はその住み処の番人をしている、ということにすぎないのだ。言葉が歴史という名の草原を移動しつつ実在を運んでいると思われるのだが、自分という存在はその牧者(ぼくしゃ)にすぎない。その番人なり牧者なりの生を通じて徐々にわからされてくるのは、実在は、そこにあると指示されているにもかかわらず、人間に認識されるのを拒絶しているということである。それを「無」とよべば、人間は実在を求めて、自分が無に永遠に回帰するほかないと知る。つまりニーチェの「永劫回帰」である。それが死という無にかかわるものとしての人間にとっての実在の姿なのだ。」
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