現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)
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「エトムント・フッサール」の記事における「現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)」の解説
日常的に、私たちは、自分の存在や世界の存在を疑ったりはしない。なぜなら、私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っているからである。フッサールは、この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。 認識の対象の意味と存在を自明的としていること 世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること 世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。
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現象学的還元
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 03:33 UTC 版)
上述のように、学を基礎づけるためには真理や本質の認識が必要であり、その認識は明証的な直観によってしかなされえないが、では学を基礎づけることが可能な絶対的な明証とはどんなものか、という問いが生まれる。この問いがいかなるものかを知るためには、まず明証を、そしてさらにその明証を生みだす志向性としての意識のありかたを突き止めなければならない。つまり、対象を対象として構成する志向的意識の体系的解明という超越論的な課題があらわれてくる。さらに『論理学研究』ののち、時間意識の研究とともに深まった志向的意識の自己構成についての絶対的主観性の究明という動機もあり、現象学的還元(独:phänomenologische Reduktion)によって自然的態度を離れ、意識の志向性そのもへと視線を向けることが求められてくる。ここにおいて現象学は、『論理学研究』の時代にはまだ払拭されきっていなかった記述心理学的な要素を捨象し、理性そのものの批判的考察へと、すなわち超越論的現象学へと深化されていく。 日常的に、自然的態度において私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを疑わない。フッサールはこの自然的態度の根本的特徴を、自明的な世界の一般定立として批判する。そして、意識の志向性を捉えるためにはあえてこの現象学的還元という反自然的な反省を行い、すでに定立され実在していると考えられている世界の意味の構成的起源である超越論的主観性を発見しなければならない。以下に挙げたものは、意識が対象へと素朴に向かっている遂行態としての自然的態度の特徴として、フッサールが示したものである。 認識の対象の意味と存在を習慣的に自明とみなしていること 世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること 世界関心への没入による、意識の本来的機能である理性の自己忘却 このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。科学的な方法に依拠する自然主義的態度などもまた、すでに前提された対象を一定の方法的視点から規定しようとするものであり、あらためて対象とその構成を問うものではないという点において、自然的態度の圏域にとどまる。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての自然的態度に依拠した判断や理論を中止する(このような現象学的態度をエポケーや判断停止といい、また譬喩的に「括弧に入れる」などともいわれる)ことで意識を機能しているがままの相において取り出す方法を提唱した。 しかし、このような態度の変更は原理的に可能であるのか、という問いがここで生じてくる。あるひとつの対象の定立を遮断したり、あるいは中止したりすることは可能であろうが、自然的態度における一般定立とは世界そのものの定立であり、われわれが日常において疑うことのないものであるから、そのようなものがはたして疑いえるのかという問いが提出される。このような問いに答えるため、フッサールはここでデカルトの普遍的な懐疑という方法を部分的に採用する。すなわち、不可疑的なものを発見するためにデカルトが行った普遍的懐疑から、可疑的な定立の否定という要素を捨象し、不可疑的な明証の発見という目的のためにこの方法的懐疑を使用するである。それゆえフッサールのエポケーは可疑的なものの定立を中止し、その定立を括弧に入れるが、しかしその定立を否定したり反定立に転化することはない。このように現象学的還元こそが、それ自体として絶対的に不可疑的なものである超越論的主観性の発見の方法である。この超越論的な現象学的還元によってとりだされた超越論的主観性とは、素朴に対象の実在を措定するという作用を遮断されており、それゆえ対象が意識によって構成されていることが自覚されている。であるからこそ、意識の本質的なありかたである志向性という意識と対象の相関関係を解明していくことができる。 しかし、『イデーン』第一巻において示されているこの現象学的還元の方法、いわゆる現象学的還元のデカルト的方途は、世界の存在の可疑性に対して意識の存在の不可疑性を対置し、その絶対的明証性によって純粋意識の領分へと一挙に飛躍してしまうものであった。それゆえ、意識やその志向性への考察が深化していくうちに、フッサールはこのデカルト的方途から離れていき、より現象そのものを捉えている現象学的還元の非デカルト的方途を探っていくこととなる。デカルト的方途では、世界の存在は可疑的なものとして斥けられていたが、現象学的な世界の考察の進展とともに、その世界の存在あるいは非存在こそが現象学的反省によって決定されるべきもので、超越論的主観性としての意識と世界の相関関係の解明をまたずして、世界意識の明証を論ずるべきではないとされていった。このように、現象学的還元の非デカルト的方途において、世界は志向的意識の相関者として現出しつつある世界であり、こういった動態的な志向性の把握が、発生的現象学へと発展していく。
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