現象学運動
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1900年にフッサールの『論理学研究』が出されると、ミュンヘン大学の心理学者テオドール・リップス門下のアレクサンダー・プフェンダーらの共感を呼んだ。1905年にはフッサールのゲッティンゲン大学とミュンヘン大学の間で学的交流が開始され、いわゆる「現象学運動」が開始された。1906年にはマックス・シェーラーがイェーナ大学からミュンヘン大学に移籍し、この運動に合流した。1913年からの『現象学年報』刊行はその一つの結実であった。この初期の、ミュンヘン大学を中心に展開した現象学運動を「ミュンヘン学派」あるいは「ミュンヘン現象学」と呼ぶ。次第にフッサールとミュンヘン学派は思想的相違から懸隔を生じさせ、1916年にフッサールがフライブルク大学へ移る頃には、その対立は決定的になっていた。 フライブルク時代のフッサールはあまり表面に出ることはなかったが、この時期に重要な作業研究に打ち込み、また多くの後継者を育成した。とくにこの「フライブルク現象学」時代に彼の後継者として現れ、現象学の存在論的発展を切り開いたのがハイデガーである。1927年『現象学年報』誌上に発表されたハイデガーの『存在と時間』は、現象および現象学に明確な規定を定め、さらにフッサールの、意識を純粋存在とみなす考えを批判し、実存的な人間存在である現存在の存在体制としての「世界・内・存在」構造の分析が進められた。ハイデガーはさらに『根拠の本質について』、『形而上学とは何か』で現象学的存在論を深めたが、1930年代には方法的限界を示唆するようになった。 第二次世界大戦後、現象学はフランスに場を移して発展した。フランスでの現象学哲学者としては、サルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティ、ミシェル・アンリ、チャン・デュク・タオ、ポール・リクール、アロン・ギュルヴィッチ、ジャン・フランソワ・リオタール、ジャック・デリダなどがいる。
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