篠山城跡とは? わかりやすく解説

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篠山城跡

名称: 篠山城跡
ふりがな ささやまじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 篠山市北新町
管理団体
指定年月日 1956.12.28(昭和31.12.28)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 慶長13年松平康重丹波八上城移り、翌14年徳川家康の命によつて新たに篠山築城諸大名その工を助け9月その功を終えた松平氏元和5年岸和田移り松平藤井)、松平形原両氏経て寛延元年青山氏ここに封ぜられ、明治維新至った
城は篠山盆地平野中に独立する丘陵営まれ平山城であって、さして高くはないが、盆地一隅高山営まれ八上城を遥に望み視野極めて広い。頂部方形状の本丸とこれを守る二の丸とを置き、城壁石垣をもつて堅める。その裾には内堀めぐらし、更にこれを略々方形状に三の丸幅広き外堀をもって囲む。三の丸の北(大手)・東及び南に開かれた門には何れも馬出備えている。
本城山陰道押える要衝として重きをなし、家康はその堅固に過ぎることを責めたといわれるが、現在内堀一部存するのみであり、且つ大手門南門よりそれぞれ本丸に至る複雑な構が殆ど失われ大手門また湮滅しているのは惜しいことである。しかしながら全体規模はよく遺存し、特に南門馬出略々存し東門また概ね旧態とどめていることは、この種遺構乏しい現在貴重であり、且つ外堀今なお満々と湛えて、方形状の曲輪同心的に配置され縄張典型を見ることができ、城郭史上価値ある遺跡である。
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篠山城

(篠山城跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 09:18 UTC 版)

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篠山城
兵庫県
鉄門跡(くろがねもんあと)と復元大書院
別名 桐ヶ城
城郭構造 輪郭式平山城
天守構造 なし(天守台はあり)
築城主 徳川家康
築城年 1609年(慶長14年)
主な城主 形原松平家青山氏
廃城年 1871年(明治4年)
遺構 石垣、堀
指定文化財 国の史跡
再建造物 二の丸御殿大書院
位置 北緯35度4分22.16秒 東経135度13分5.71秒 / 北緯35.0728222度 東経135.2182528度 / 35.0728222; 135.2182528
地図
篠山城
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上空から見る篠山城(空撮
1本丸 2二の丸 3三の丸 H大手門
内堀と石垣
外堀 南面
焼失前の二の丸御殿大書院 1943年(昭和18年)
二の丸御殿大書院(木造復元)
大書院「次之間」
篠山城の模型
篠山城跡周辺の航空写真 1975年

篠山城(ささやまじょう)は、兵庫県丹波篠山市北新町にあった日本の城(近世城郭)。篠山盆地の中央部、笹山とよばれる小丘陵に築かれた平山城で、篠山藩藩庁であった。国の史跡に指定されている。

歴史・沿革

江戸時代

以後、松井松平家一代、藤井松平家二代、形原松平家五代、青山家六代の歴代篠山藩主を経て明治を迎えた。

近現代

1873年明治6年) に城郭の建造物が取り壊され始めた。二の丸御殿の大書院(おおしょいん)も公示入札を行ったところ100円での落札が決まったが、取り壊しに多くの費用が必要なことから放置された[1]。これを旧藩士の安藤直紀が入手し、小学校、次いで公民館へと転用されて現存した。しかし1944年(昭和19年)に火災訓練時の失火により焼失した[1]

復元・整備

城周辺の整備がすすめられており、2000年(平成12年)4月には二の丸御殿の中心的建物だった大書院(おおしょいん)が復元された。大書院は一般公開されている。

堀に不法投棄される自転車などのゴミや、増える外来種を駆除するために堀の水を抜いて作業するなどして水質を改善する活動が行われている[3][4]令和元年7月、三の丸南広場の整備が終わり供用が再開された[5]

  • 1971年昭和46年)1月 - 第1次「史跡篠山城跡総合整備計画」を策定。
  • 1978年(昭和53年)3月 - 第2次「史跡篠山城跡総合整備計画」を策定。
  • 1986年(昭和61年)3月 - 第3次「史跡篠山城跡総合整備計画」を策定。
  • 1999年(平成11年)3月 - 第4次「史跡篠山城跡総合整備計画」を策定。
  • 2012年(平成24年)3月 - 第5次「史跡篠山城跡総合整備計画」を策定。

縄張

城は内堀と外堀を有し、内堀内に本丸と二の丸を設ける。外堀の外周は1辺約400mのほぼ正方形で、東・北・南の門には馬出を設置して守りを固めていた。二の丸を囲む土塀は所々、屏風折りに外側に突き出しており狭間の死角を少なくする工夫がされていた。築城当初より天守台はあるが天守は建設されなかった。これは石垣をはじめとする城の造りが堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。実際には次に予定していた名古屋城の普請にあたり、篠山城築城に関わった助役大名のほとんどを移らせたためであり、家康も必要以上に堅固としたため普請期間が伸びたと難じた。天守の建てられなかった天守台には、平櫓が南西隅に建っていた。

三の丸に上級武士、外堀沿いに中級・下級武士、外堀南に足軽長屋、街道沿いに町や社寺が配置された。

現在、三の丸には北と南に広場がありデカンショ祭篠山ABCマラソンのスタート・ゴール地点などの催し物にも使用されている。外堀沿いには桜が約1000本、植えられている。これは1915年大正4年)、篠山町青年会が大正天皇即位を記念して東堀に植樹した事に始まる。

文化財

史跡

馬出の遺構が東と南の2カ所が残っている、特に南馬出は現存する唯一の土塁だけの馬出であり、その高さは約4メートルである[6]1956年(昭和31年)12月28日国の史跡に指定された[7]。いずれの門か不明だが市内金照寺に山門として移築現存している。

観光

所在地

兵庫県丹波篠山市北新町2-3(大書院所在地)

交通アクセス

西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線篠山口駅」より、ウイング神姫(旧神姫グリーンバス)(2番のりば・篠山営業所ゆき)で17分、二階町下車、南へ300m。城の北側に市営駐車場あり。

料金

  • 大人:400円
  • 大学・高校生:200円
  • 中学・小学生:100円

周囲の文化施設・観光名所

脚注

  1. ^ a b 西ヶ谷, 恭弘『日本の城郭を歩く - 古写真が語る名城50JTB東京都品川区〈JTBキャンブックス〉、2001年、133頁。ISBN 978-4533038716 
  2. ^ 丹波篠山インターネットTV
  3. ^ 篠山市環境報告書「第2章 主要な環境施策」:篠山市資料(PDF)
  4. ^ お城の南堀を市民150人が清掃:篠山市長日記(2011年1月22日)
  5. ^ 14年ぶりの眺め「見に来て/ 雄大な石垣が目の前に 14年ぶりの眺め「見に来て」 国史跡の城跡南側に広場完成
  6. ^ 梶村文弥『丹波篠山五十三次ガイド 改訂ふるさとの探訪』篠山観光協会、1991、P8
  7. ^ 丹波篠山市の文化財 国指定等文化財”. 丹波篠山市役所. 2024年11月13日閲覧。

関連項目

外部リンク

兵庫県丹波篠山市役所
旧・篠山市


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