第5、第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年8月とは? わかりやすく解説

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第5、第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年8月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/24 20:38 UTC 版)

アングラー (潜水艦)」の記事における「第5、第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年8月」の解説

9月18日アングラー5回目哨戒ブルーギル (USS Bluegill, SS-242) とともにパラワン水道スールー海およびマニラ近海方面向かった10月14日朝、アングラー北緯11度53東経12139分 / 北緯11.883度 東経121.650度 / 11.883; 121.650のタブラス海峡で2隻の護衛艦配する3隻の輸送船発見魚雷を4本発射し、2本が7,500トン輸送船命中して撃沈できなかったと判断される実際に輸送船南嶺丸(東亜海運、2,400トン)を撃沈した10月16日には病院船発見し10月19日にはブルーギルから船団攻撃の報告を受ける。10月22日1時45分アングラー見張り員は男の叫び声聞いた。声の主を見つける試み成功しなかったが、夜明けとともに「最も気味悪いものの、辛うじて想像可能な光景一つ」をアングラーは見ることとなった周囲海面は、生死不明日本軍兵士埋め尽くされていた。アングラーボート出して夕方まで収容作業にあたり生存していた兵士26人に達したアングラーではこの26人の兵士尋問し誰が上級士官かを尋ねた。そして、階級の高い順に島津正義中尉セイ軍曹西川トヨナガ軍曹の3人が情報提供者としてアメリカ軍協力する宣誓し残り兵士80マイル離れたところで水と食料海図与えて解放した10月23日1915分アングラーパラワン島北端沖でギターロ (USS Guitarro, SS-363) とともに日本艦隊動静監視していたところ、栗田健男中将率い日本艦隊探知。翌10月24日2時40分ごろまで追跡し司令部報告したアングラーはこの時重要な輸送船団接触しつつあったものの、より重要な栗田艦隊追跡すべく、好餌敢えて捨てて作戦寄与することとなった10月31日朝、アングラー北緯12度52東経12035分 / 北緯12.867度 東経120.583度 / 12.867; 120.583の地点で2隻の2,000トンないし2,500トン輸送船発見し魚雷を4本発射した命中しなかった。11月1日にはハードヘッド (USS Hardhead, SS-365) と会合し、少し前にハードヘッド救助した戦闘機パイロットフレッド・E・バクティス中佐引き取った11月2日にはシブツ海峡南下中にクジラ接触してスクリュー損傷した11月9日アングラー50日間行動終えてフリーマントル帰投した。 12月4日アングラー6回目哨戒南シナ海向かった。その途中12月15日未明アングラーは「損傷したバーゴール (USS Bergall, SS-320) の救援をせよ」との命令受けたバーゴール12月13日インドシナ半島サンジャック沖で、重巡洋艦妙高浮上したまま雷撃損傷与えたものの、直後妙高自身主砲高角砲反撃しそのうち主砲弾がバーゴール前部魚雷発射管室を左から右へ貫通し不発弾だったものの船殻破られたため潜航不能状態に陥っていたのである命令受けたアングラーカリマタ海峡通過し昼前南緯0036東経10723分 / 南緯0.600度 東経107.383度 / -0.600; 107.383の地点バーゴール会合して、バーゴール浮上状態のままオーストラリアまで護衛することにした。バーゴール乗組員アングラー移されたが、バーゴールジョン・M・ハイド艦長アナポリス1934年組)は責任者として他の主要幹部とともにバーゴール残ったアングラーには予め、「状況困難な場合バーゴール乗員を完全に移乗させた上でバーゴール自沈処分してもよろしい」という命令与えられており、実際に処分のための魚雷セットされていたが、奇跡的にそのような切羽詰った状況にならず。結局日本がいまだ制海権保持していた水域を無事通過し12月20日エクスマウス湾に到着しバーゴール別れた12月21日から哨戒再開した後、1945年2月6日サイパン島寄港2月15日アングラー72日間行動終えて真珠湾帰投2月24日本土帰還しサンフランシスコベスレヘム・スチールオーバーホールの後、真珠湾回航された。オーバーホールの間に、艦長がH・ビセル・ジュニア少佐アナポリス卒業年次不明)に代わった。 6月12日アングラー7回目哨戒モレイ (USS Moray, SS-300)、シーポーチャー (USS Sea Poacher, SS-406) およびソーンバック (USS Thornback, SS-418) とともにウルフパック構成し日本近海向かった6月27日サイパン島寄港して補給の後、哨区に到着この頃になると日本の艦船動けるのは石炭焚き小さな船しかおらず、目ぼしい大型船数える程度の状態であった動け艦船も、機雷によりほとんど身動き取れない状況であり、外海船舶を見ることはまれであったアングラーのこの哨戒での活動も、3度にわたる対地攻撃が主となった感があった。7月25日朝、アングラー北緯38度32東経14137分 / 北緯38.533度 東経141.617度 / 38.533; 141.617の地点小型輸送船発見し魚雷3本発射した命中せず、これが唯一の艦船攻撃だった。7月26日アングラー金華山灯台沖に出現しおよそ3キロ離れた海上から5インチ砲で攻撃灯台の他密集した建物放送塔目標25発発射したが、視界遮られ与えた損害確認することはできなかった。次いで7月31日夕刻アングラー苫小牧沖に出現しかかっていたもの王子製紙苫小牧工場攻撃50発もの大量弾丸撃ち込み、うち少なくとも20発が事務所調査室火力発電所製品倉庫などを破壊し電線損傷受けたため工場操業停止してしまった。翌8月1日アングラーはシー・ポーチャー、ソーンバックらとともに様似周辺漁船陸上艇庫建物などに対して5インチ砲弾23発、40ミリ機関砲320発、20ミリ機銃300発を撃ちこみ、この攻撃鵜苫国民学校被弾して桜田章校長破壊され建物下敷きになって殉職した。8月9日アングラーはに56日間行動終えてミッドウェー島帰投した。

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