第5、第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年8月
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「アングラー (潜水艦)」の記事における「第5、第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年8月」の解説
9月18日、アングラーは5回目の哨戒でブルーギル (USS Bluegill, SS-242) とともにパラワン水道、スールー海およびマニラ近海方面に向かった。10月14日朝、アングラーは北緯11度53分 東経121度39分 / 北緯11.883度 東経121.650度 / 11.883; 121.650のタブラス海峡で2隻の護衛艦を配する3隻の輸送船を発見。魚雷を4本発射し、2本が7,500トン級輸送船に命中して撃沈できなかったと判断される。実際には輸送船南嶺丸(東亜海運、2,400トン)を撃沈した。10月16日には病院船を発見し、10月19日にはブルーギルから船団攻撃の報告を受ける。10月22日1時45分、アングラーの見張り員は男の叫び声を聞いた。声の主を見つける試みは成功しなかったが、夜明けとともに「最も気味悪いものの、辛うじて想像可能な光景の一つ」をアングラーは見ることとなった。周囲の海面は、生死不明の日本軍兵士で埋め尽くされていた。アングラーはボートを出して夕方まで収容作業にあたり、生存していた兵士は26人に達した。アングラーではこの26人の兵士を尋問し、誰が上級士官かを尋ねた。そして、階級の高い順に島津正義中尉、藤セイ軍曹、西川トヨナガ軍曹の3人が情報提供者としてアメリカ軍に協力する旨宣誓し、残りの兵士は80マイル離れたところで水と食料、海図を与えて解放した。10月23日19時15分、アングラーはパラワン島の北端沖でギターロ (USS Guitarro, SS-363) とともに日本艦隊の動静を監視していたところ、栗田健男中将率いる日本艦隊を探知。翌10月24日2時40分ごろまで追跡し、司令部に報告した。アングラーはこの時重要な輸送船団に接触しつつあったものの、より重要な栗田艦隊を追跡すべく、好餌を敢えて捨てて作戦に寄与することとなった。10月31日朝、アングラーは北緯12度52分 東経120度35分 / 北緯12.867度 東経120.583度 / 12.867; 120.583の地点で2隻の2,000トンないし2,500トン級輸送船を発見し、魚雷を4本発射したが命中しなかった。11月1日にはハードヘッド (USS Hardhead, SS-365) と会合し、少し前にハードヘッドが救助した戦闘機パイロットのフレッド・E・バクティス中佐を引き取った。11月2日にはシブツ海峡を南下中にクジラと接触してスクリューを損傷した。11月9日、アングラーは50日間の行動を終えてフリーマントル帰投した。 12月4日、アングラーは6回目の哨戒で南シナ海に向かった。その途中の12月15日未明、アングラーは「損傷したバーゴール (USS Bergall, SS-320) の救援をせよ」との命令を受けた。バーゴールは12月13日にインドシナ半島サンジャック沖で、重巡洋艦妙高を浮上したまま雷撃し損傷を与えたものの、直後に妙高自身が主砲と高角砲で反撃し、そのうちの主砲弾がバーゴールの前部魚雷発射管室を左から右へ貫通し、不発弾だったものの船殻を破られたため潜航不能状態に陥っていたのである。命令を受けたアングラーはカリマタ海峡を通過し、昼前に南緯00度36分 東経107度23分 / 南緯0.600度 東経107.383度 / -0.600; 107.383の地点でバーゴールと会合して、バーゴールを浮上状態のままオーストラリアまで護衛することにした。バーゴールの乗組員はアングラーに移されたが、バーゴールのジョン・M・ハイド艦長(アナポリス1934年組)は責任者として他の主要幹部とともにバーゴールに残った。アングラーには予め、「状況が困難な場合はバーゴール乗員を完全に移乗させた上で、バーゴールを自沈処分してもよろしい」という命令も与えられており、実際に処分のための魚雷もセットされていたが、奇跡的にそのような切羽詰った状況にならず。結局、日本がいまだ制海権を保持していた水域を無事通過し、12月20日にエクスマウス湾に到着しバーゴールと別れた。12月21日から哨戒を再開した後、1945年2月6日にサイパン島に寄港。2月15日、アングラーは72日間の行動を終えて真珠湾に帰投。2月24日に本土に帰還し、サンフランシスコのベスレヘム・スチールでオーバーホールの後、真珠湾に回航された。オーバーホールの間に、艦長がH・ビセル・ジュニア少佐(アナポリス卒業年次不明)に代わった。 6月12日、アングラーは7回目の哨戒でモレイ (USS Moray, SS-300)、シーポーチャー (USS Sea Poacher, SS-406) およびソーンバック (USS Thornback, SS-418) とともにウルフパックを構成し、日本近海に向かった。6月27日にサイパン島に寄港して補給の後、哨区に到着。この頃になると日本の艦船で動けるのは石炭焚きか小さな船しかおらず、目ぼしい大型船は数える程度の状態であった。動けた艦船も、機雷によりほとんど身動きが取れない状況であり、外海で船舶を見ることはまれであった。アングラーのこの哨戒での活動も、3度にわたる対地攻撃が主となった感があった。7月25日朝、アングラーは北緯38度32分 東経141度37分 / 北緯38.533度 東経141.617度 / 38.533; 141.617の地点で小型輸送船を発見し、魚雷を3本発射したが命中せず、これが唯一の艦船攻撃だった。7月26日、アングラーは金華山灯台沖に出現し、およそ3キロ離れた海上から5インチ砲で攻撃。灯台の他密集した建物や放送塔を目標に25発発射したが、視界を遮られて与えた損害を確認することはできなかった。次いで7月31日夕刻、アングラーは苫小牧沖に出現し、霧がかかっていたものの王子製紙苫小牧工場を攻撃。50発もの大量の弾丸を撃ち込み、うち少なくとも20発が事務所や調査室、火力発電所、製品倉庫などを破壊し、電線が損傷を受けたため工場の操業は停止してしまった。翌8月1日、アングラーはシー・ポーチャー、ソーンバックらとともに様似周辺の漁船や陸上の艇庫、建物などに対して5インチ砲弾23発、40ミリ機関砲弾320発、20ミリ機銃弾300発を撃ちこみ、この攻撃で鵜苫国民学校が被弾して桜田章賢校長が破壊された建物の下敷きになって殉職した。8月9日、アングラーはに56日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。
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