第5、第6、第7の哨戒 1942年5月 - 12月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 11:07 UTC 版)
「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の記事における「第5、第6、第7の哨戒 1942年5月 - 12月」の解説
5月12日、シーウルフは5回目の哨戒でマニラ湾方面に向かった。5月20日にティモール島沖で貨物船を攻撃したのを皮切りに、5月23日、6月12日、13日、15日および28日に貨物船に対する攻撃を行ったが、結果は2つの攻撃を除いて芳しくなかった。6月13日のコレヒドール島沖での攻撃では、シーウルフは2隻の船に砲撃を行った。この攻撃で乗組員は4度の爆発音を聞いたが結果は不明であった。2日後の6月15日、シーウルフはマニラ湾口で特設砲艦南浦丸(阿波国共同汽船、1,206トン)を撃沈した。7月2日、シーウルフは51日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 7月25日、シーウルフは6回目の哨戒でスールー海、セレベス海およびマニラ方面に向かった。8月3日にマカッサル海峡でタンカーを攻撃後、8月14日に北緯05度03分 東経144度37分 / 北緯5.050度 東経144.617度 / 5.050; 144.617の地点で輸送船八元丸(拿捕船、3,113トン)を撃沈。8月25日にはマニラ沖で輸送船昌和丸(日東鉱業汽船、1,349トン)を撃沈した。9月15日、シーウルフは52日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 10月7日、シーウルフは7回目の哨戒でフィリピン方面に向かった。11月2日、シーウルフは北緯06度14分 東経126度08分 / 北緯6.233度 東経126.133度 / 6.233; 126.133のミンダナオ島サンアウグスティン岬沖で、ダバオからマニラに向かっていた陸軍船岐阜丸(日本郵船、2,934トン)を撃沈。この時のシーウルフには、海上に漂う岐阜丸の乗組員を41名まで数える余裕さえあった。シーウルフは続いてダバオ湾(英語版)奥深く侵入。翌11月3日、シーウルフは北緯07度02分 東経125度33分 / 北緯7.033度 東経125.550度 / 7.033; 125.550のダバオ港外タロモ泊地に停泊して荷役中の相模丸を発見。バドゥン海峡での遭遇以来久々に相模丸と顔合わせしたシーウルフは、10時50分に最初の魚雷を発射し、相模丸に2本命中。続く二度目の雷撃でも、陸岸に命中した1本を除いて命中。三度目の雷撃でも2本命中させ、相模丸は船首を下にして沈没した。攻撃後、シーウルフは哨戒機と哨戒艇に夕方まで追跡されたものの、被害を受けることも無く湾からの脱出に成功した。11月8日にも北緯06度24分 東経125度59分 / 北緯6.400度 東経125.983度 / 6.400; 125.983のサンアウグスティン岬北西海域で特設砲艦慶興丸(大阪商船、2,932トン)を撃沈した。このあとシーウルフは、パラオ方面の艦船出入り状況を調査した。11月11日、シーウルフはパラオ西水道(トーゲル・ムルンギ水道)沖で駆逐艦2隻の護衛をつけてダバオに向かう空母雲鷹を発見し、浮上して追跡を開始した。しかし、翌11月12日朝になって発電機が故障したため追跡を断念し、目標に関する情報を打電したのち真珠湾に向かった。12月1日、シーウルフは55日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航され12月10日からオーバーホールに入り、作業は1943年2月24日に完了。3月13日に真珠湾へ戻った。オーバーホールの間に、艦長がロイス・L・グロス少佐(アナポリス1930年組)に代わった。
※この「第5、第6、第7の哨戒 1942年5月 - 12月」の解説は、「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の解説の一部です。
「第5、第6、第7の哨戒 1942年5月 - 12月」を含む「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の記事については、「シーウルフ (サーゴ級潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第5、第6、第7の哨戒 1942年5月 - 12月のページへのリンク