第5、第6、第7の哨戒 1944年6月 - 1945年7月とは? わかりやすく解説

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第5、第6、第7の哨戒 1944年6月 - 1945年7月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:41 UTC 版)

スケート (潜水艦)」の記事における「第5、第6、第7の哨戒 1944年6月 - 1945年7月」の解説

6月23日スケート5回目哨戒千島列島方面向かった7月7日夕刻スケートは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯4736東経14810分 / 北緯47.600度 東経148.167度 / 47.600; 148.167の地点小樽から千島各地に向かうキ504船団発見し、ただ1隻の護衛艦である駆逐艦薄雲向けて魚雷発射命中弾を得てこれを撃沈した船団西方退避しスケートその場から立ち去った7月15日には、北緯4829東経14736分 / 北緯48.483度 東経147.600度 / 48.483; 147.600の地点海軍徴用船三穂丸(東邦水産515トン)を撃沈し2人捕虜得た。翌16日にも北緯4829東経14736分 / 北緯48.483度 東経147.600度 / 48.483; 147.600の地点で、幌筵島発のヲ505船団から故障により脱落して単独航行していた日丸(日産汽船、1,942トン)を撃沈した8月7日スケート45日間行動終えて真珠湾帰投艦長リチャード・B・リンチアナポリス1935年組)に代わった。 9月8日スケート6回目哨戒南西諸島方面向かった9月29日北緯2714東経12821分 / 北緯27.233度 東経128.350度 / 27.233; 128.350の地点益山丸(巴組汽船、3,690トン)と護衛特設掃海艇宝永丸(日本海洋漁業219トン)を撃沈ほか、沖縄島沿岸部偵察した11月2日スケート54日間行動終えて真珠湾帰投サンフランシスコ近郊ハンターズ・ポイント海軍造船所回航されオーバーホール入ったオーバーホール後の1945年5月11日スケートグアム向かった5月28日スケート7回目哨戒バーニー作戦参加して日本海向かった。このバーニー作戦は、この時点日本残されたほぼ唯一の重要航路打撃与えるものであり、対馬海峡機雷原突破日本海悠然と航行する日本船は、目標減少嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好スリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦投入され「ヘルキャッツ」 Hellcats と命名された。各潜水艦は三群に分けられシードッグ (USS Sea Dog, SS-401) のアール・T・ハイデマン(アナポリス1932年組)が総司令となったスケートタニー (USS Tunny, SS-282)、ボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) とともにウルフパック「ピアースズ・ポールキャッツ」 Pierce's Polecats を構成したリレー式に対馬海峡突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域向かい6月9日日の出時の攻撃開始待った。「ピアースズ・ポールキャッツ」は能登半島以西沿岸部進出した6月10日昼ごろ、スケート禄剛崎沖で七尾湾向かって浮上航行中伊122発見彼我の距離はわずかに720メートルほどで、伊122スケート横腹見せる形で航行していた。スケート魚雷を4本発射し、うち2本が命中伊122火災発生して沈没した2日後6月12日朝、スケートは富来湾口出現。富来湾内仮泊中の謙譲丸(甲南汽船、3142トン)、陽山丸(山本汽船、1,227トン)、瑞興丸(大洋興業、887トン)および咸鏡丸(不詳)に向けて魚雷発射風向きの関係で横腹を向ける形となった謙譲丸、陽山丸および瑞興丸に命中し海上ブリッジ露出した形で沈没した。咸鏡丸に向けて発射され魚雷は、沈没船が盾代わりとなって命中しなかった。6月24日夜に宗谷海峡西側到着6月19日討ち取られたボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 以外のシードッグ以下の各潜水艦は翌25日正午濃霧の中を二列縦陣浮上航行海峡通過しオホーツク海入った7月4日スケート49日間の行動終えて真珠湾帰投した。この後8月5日8回目哨戒出撃したが、途中で8月15日日本降伏受けて引き返した

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