第5、第6、第7の哨戒 1944年6月 - 1945年7月
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「スケート (潜水艦)」の記事における「第5、第6、第7の哨戒 1944年6月 - 1945年7月」の解説
6月23日、スケートは5回目の哨戒で千島列島方面に向かった。7月7日夕刻、スケートは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度36分 東経148度10分 / 北緯47.600度 東経148.167度 / 47.600; 148.167の地点で小樽から千島各地に向かうキ504船団を発見し、ただ1隻の護衛艦である駆逐艦薄雲に向けて魚雷を発射、命中弾を得てこれを撃沈した。船団は西方に退避し、スケートはその場から立ち去った。7月15日には、北緯48度29分 東経147度36分 / 北緯48.483度 東経147.600度 / 48.483; 147.600の地点で海軍徴用船三穂丸(東邦水産、515トン)を撃沈し、2人の捕虜を得た。翌16日にも北緯48度29分 東経147度36分 / 北緯48.483度 東経147.600度 / 48.483; 147.600の地点で、幌筵島発のヲ505船団から故障により脱落して単独で航行していた日鵬丸(日産汽船、1,942トン)を撃沈した。8月7日、スケートは45日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がリチャード・B・リンチ(アナポリス1935年組)に代わった。 9月8日、スケートは6回目の哨戒で南西諸島方面に向かった。9月29日に北緯27度14分 東経128度21分 / 北緯27.233度 東経128.350度 / 27.233; 128.350の地点で益山丸(巴組汽船、3,690トン)と護衛の特設掃海艇宝永丸(日本海洋漁業、219トン)を撃沈ほか、沖縄島の沿岸部を偵察した。11月2日、スケートは54日間の行動を終えて真珠湾に帰投。サンフランシスコ近郊のハンターズ・ポイント海軍造船所に回航されオーバーホールに入った。オーバーホール後の1945年5月11日、スケートはグアムに向かった。 5月28日、スケートは7回目の哨戒でバーニー作戦に参加して日本海に向かった。このバーニー作戦は、この時点の日本に残されたほぼ唯一の重要航路に打撃を与えるものであり、対馬海峡の機雷原突破と日本海を悠然と航行する日本船は、目標の減少に嘆いていた潜水艦部隊にとっては絶好のスリルであり獲物であった。この作戦には9隻の潜水艦が投入され「ヘルキャッツ」 Hellcats と命名された。各潜水艦は三群に分けられ、シードッグ (USS Sea Dog, SS-401) のアール・T・ハイデマン(アナポリス1932年組)が総司令となった。スケートはタニー (USS Tunny, SS-282)、ボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) とともにウルフパック「ピアースズ・ポールキャッツ」 Pierce's Polecats を構成した。 リレー式に対馬海峡を突破したシードッグ以下の潜水艦は三群それぞれの担当海域に向かい、6月9日日の出時の攻撃開始を待った。「ピアースズ・ポールキャッツ」は能登半島以西の沿岸部に進出した。6月10日昼ごろ、スケートは禄剛崎沖で七尾湾に向かって浮上航行中の伊122を発見。彼我の距離はわずかに720メートルほどで、伊122はスケートに横腹を見せる形で航行していた。スケートは魚雷を4本発射し、うち2本が命中。伊122は火災を発生して沈没した。2日後の6月12日朝、スケートは富来湾口に出現。富来湾内で仮泊中の謙譲丸(甲南汽船、3142トン)、陽山丸(山本汽船、1,227トン)、瑞興丸(大洋興業、887トン)および咸鏡丸(不詳)に向けて魚雷を発射。風向きの関係で横腹を向ける形となった謙譲丸、陽山丸および瑞興丸に命中し、海上にブリッジを露出した形で沈没した。咸鏡丸に向けて発射された魚雷は、沈没船が盾代わりとなって命中しなかった。6月24日夜に宗谷海峡西側に到着。6月19日に討ち取られたボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) 以外の、シードッグ以下の各潜水艦は翌25日正午に濃霧の中を二列縦陣、浮上航行で海峡を通過し、オホーツク海に入った。7月4日、スケートは49日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。この後、8月5日に8回目の哨戒で出撃したが、途中で8月15日の日本降伏を受けて引き返した。
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