第5、第6、第7の哨戒 1942年10月 - 1943年3月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/10 21:15 UTC 版)
「スナッパー (潜水艦)」の記事における「第5、第6、第7の哨戒 1942年10月 - 1943年3月」の解説
10月22日、スナッパーは5回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。途中、オーストラリア大陸南岸を回って10月31日にブリスベンに寄港し、11月3日まで停泊した。補給ののちソロモン諸島中部の哨戒海域に急行。目下ガダルカナル島の戦いが繰り広げられていた時期であり、日本軍の艦船や航空機に多数遭遇した。11月24日にはムンダ近海で輸送船団を発見したが、駆逐艦の制圧を受けて攻撃できなかった。この哨戒ではこれを含めて、絶好の攻撃機会は訪れなかった。12月23日、スナッパーは64日間の行動を終えてブリスベンに帰投した。 1943年1月27日、スナッパーは6回目の哨戒でソロモン諸島方面に向かった。2月28日までビスマルク諸島近海で哨戒したのち、ナウル島やギルバート諸島を偵察しながら、真珠湾に向かった。この哨戒でも多くの貨物船や駆逐艦などに遭遇したものの、距離が遠かったなどの理由により攻撃機会に恵まれなかった。3月14日、スナッパーは46日間の行動を終えて真珠湾に帰投。オーバーホールのためハンターズ・ポイント海軍造船所に回航された。オーバーホール中に、艦長がメリル・K・クレメンソン少佐(アナポリス1933年組)に代わった。 7月29日、スナッパーは7回目の哨戒でマリアナ諸島、トラック諸島方面に向かった。ミッドウェー島に寄港し補給の後、哨戒海域に到着した。そして、スナッパーはグアム島アプラ港において太平洋戦争における最初の戦果を挙げることとなる。8月20日、スナッパーはアプラ港の北東の端に係留された2隻の大型船を観測する。スナッパーはそれらが出港するまで港の外で潜航したまま哨戒を続けることを決定した。この2隻の船のうち、1隻は1月26日にフライングフィッシュ (USS Flying Fish, SS-229) が満潮を待ってサンゴ礁越しに発射した魚雷が命中して損傷し、5月5日にパーミット (USS Permit, SS-178) から発射した魚雷が命中して損傷を受けた特設運送船東海丸(大阪商船、8,365トン)だった。7日後の8月27日午後、スナッパーは港の北へ向かい、港内の東海丸に対して3本の魚雷を発射し、別の目標にも1本発射した。スナッパーは現場をすぐに離れ、最初の目標に1本が命中したのを確認した。スナッパーの最初の戦果となり、東海丸は船尾から沈んでいった。9月2日、スナッパーは北緯08度40分 東経151度31分 / 北緯8.667度 東経151.517度 / 8.667; 151.517のルクテー島近海で5隻の貨物船および駆逐艦雷、海防艦六連からなる第4902船団に接近した。主目標の貨物船はジグザク進路を取って離れていったが、ほどなく左舷の六連が視界に入り、スナッパーはこれに対して魚雷を発射した。魚雷は六連の右舷艦首と後部に命中。六連は爆発を起こして吹き飛び、炎に包まれ大傾斜の末沈没していった。六連の沈没は、後におびただしい犠牲を重ねた日本の海防艦の喪失第一号である。雷が爆雷攻撃を始めたが、スナッパーは速やかに現場を離脱した。9月6日、スナッパーは北緯10度26分 東経149度38分 / 北緯10.433度 東経149.633度 / 10.433; 149.633の地点で別の船団を迎え撃ち、3本の魚雷を発射したが全弾が外れた。9月17日、スナッパーは54日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。
※この「第5、第6、第7の哨戒 1942年10月 - 1943年3月」の解説は、「スナッパー (潜水艦)」の解説の一部です。
「第5、第6、第7の哨戒 1942年10月 - 1943年3月」を含む「スナッパー (潜水艦)」の記事については、「スナッパー (潜水艦)」の概要を参照ください。
- 第5、第6、第7の哨戒 1942年10月 - 1943年3月のページへのリンク