第3次争議勃発
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1947年(昭和22年)12月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は東宝に追放令を発し、経営陣が入れ替わった。社長の田辺加多丸が会長に就任し、新社長には外部から元日本商工会議所専務理事・衆議院議員の渡辺銕蔵を招聘した。予てから「反共の闘士」で鳴った渡辺は労務担当重役や撮影所長に強硬派を据え、年が改まった1948年(昭和23年)4月8日に東京砧(きぬた)撮影所従業員270名を突然解雇した。さらに、人員整理のため1200名の解雇計画を発表した。 これを受けて4月15日に従組は生産管理闘争に突入、東京砧撮影所を占拠して資機材を管理下に置き、正面入口にバリケードを作って立てこもった。これによって第3次争議の始まりとなる。一方経営側は、5月1日・メーデーの日に会社は休業を宣言。従組は東京地方裁判所に会社の営業再開を求める仮処分を申請したが、会社側も占有解除を求める仮処分を申請し対抗し8月13日に東京地裁は会社側の申請を認め占有解除の仮処分執行を決定した。 翌14日に裁判所の執行吏が砧撮影所へ向かったが、この時は立てこもっていた従組組合員800名によって入場を拒否される。 改めて8月19日に仮処分執行を決定するが、その前から労働者2500名が砧撮影所に立てこもった。五所平之助、今井正、楠田清、亀井文夫などの映画監督、岩崎昶、伊藤武郎などのプロデューサー、山形雄策などの脚本家、宮島義勇などのカメラマン、ニューフェイスの若山セツ子、久我美子、中北千枝子といった俳優も数多く参加した。各セットの小屋の前には、不燃塗料を詰めた大樽を複数並べ、各樽の上には零戦のエンジンを搭載した特撮用の大型扇風機を持ち出してきて設置した。警官隊が突入してきた際、風圧で砂利やガラス片、塗料を飛ばすものであり、実際にこれは使用された。屋根や窓から、木片やガラス球を詰めた袋を落とす仕掛けも作られていた。電流を流した罠も設置された。 同日早朝、日本の占領業務にあたっていた連合国軍の一角をなすキャンプ・ドレイクに駐留していたアメリカ陸軍第1騎兵師団司令官ウィリアム・チェイス少将は、カービンで武装したアメリカ軍MP150名、歩兵自動車部隊1個小隊、装甲車6両、M4中戦車3両、航空機3機を率いて砧撮影所を包囲した。これらの部隊は、H.F.T.ホフマン代将指揮のアメリカ軍地上部隊だった。チェイスは航空機から指揮を執った。 同日午前8時30分、警視庁予備隊2000名が仮処分の執行援助の為に砧を包囲した。小田急線成城学園前駅での乗降を禁止し、砧撮影所に通じる道を封鎖した。 同日午前9時30分、成城警察署署長もしくは執行吏と会社側代理人の弁護士が、アメリカ軍トラックに乗り、10数人の警官隊に守られながら、砧撮影所の正門まで行き、従組に、執行吏による仮処分受諾を要求し、従組代表と交渉した。 同日午前10時30分、警視庁予備隊部隊が、戦車に先導されて砧撮影所正門前に展開し始めた。亀井文夫が、砧撮影所正門前の予備隊に向かって、「正義は暴力によっては踏みにじられない」と書いた紙を掲げた。その後、従組は、軍に包囲された以上、力での抵抗は不可能と判断し、職員会議を開いて仮処分の受け入れを決定した。 同日午前11時過ぎ、組合員2500名は互いに腕を組み、インターナショナルの歌を歌いながら撮影所を退去し、演劇研究所に撤退した。続いて執行吏が所内に入り、仮処分執行の公示書を掲示した。 このとき、日映演東宝分会は、砧撮影所の他に、東宝営業部門(映画館)も占拠していた。渡辺銕蔵は、映画館を閉鎖されると直接会社経営に響くことから、商売の面から争議の切り崩しを図った。東宝監督の渡辺邦男を、愚連隊の首領・万年東一に遣わして、日比谷の映画館のスト破りを依頼した。万年は、連日“小光”小林光也や“新宿の帝王”加納貢ら、50人から100人の配下を連れて、映画館を襲撃し、組合員を追い出した。また連日の闘争費用を東宝に要求したが、成功報酬は受け取らなかった。 同年10月18日、組合最高幹部の伊藤武郎、宮島義勇は、渡辺社長らと会談。ここで、組合幹部20名の自主的な退社と交換条件で、解雇されていた残り250名の解雇を撤回することで合意がなされた。さらに、大規模な人員整理の凍結などが認められ、組合側と会社側による覚書の調印によって、ようやく第3次東宝争議は正式に決着した。 1950年(昭和25年)、東宝は、東宝争議で解雇が撤回された200名を、レッドパージという形で解雇した。
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