第3次内閣までの野党時代
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「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「第3次内閣までの野党時代」の解説
イタリア統一戦争については、はじめイタリア・ナショナリズムに強い不信感をもっていたが、徐々に理解を示すようになり、1864年4月にはジュゼッペ・ガリバルディが主賓になっているロンドンでの晩餐会に出席して話題となった。 プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクの策動で始まった第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争については中立の立場をとるよう政府に訴えた。 1865年7月の解散総選挙(英語版)に保守党の総力を挙げて臨んだダービー伯爵だったが、結局20議席を失う敗北を喫している。 1865年10月、選挙権拡大に慎重だった首相パーマストン子爵が死去し、代わってラッセル伯爵が首相となると、庶民院院内総務になったウィリアム・グラッドストンの主導で選挙法改正法案が提出されたが、保守党や自由党右派の反対で否決され、ラッセル伯爵内閣は総辞職に追い込まれた。
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