生産管理闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 09:30 UTC 版)
1968年4月、鉄道部門が閉鎖され20人が解雇される。鉄道部門閉鎖後は、残ったバス部門だけで、寿都-黒松内-長万部などの路線を細々営業したが、賃金の未払いは続いた。業を煮やした組合は10月よりバスの運行の自主管理を始める。日銭を会社側に納金していては負債の返済に使われ、組合員の懐に入らないと考えたのだ。1日の運賃収入は約3万円、燃料代6000円を差し引いた残額を組合員14名と臨時雇いのバス車掌で分け合った。会社側もこれを黙認した。しかし、11月に入るとスノータイヤを購入する資金もなく暖房費用も賄えないほどとなる。組合員の中からは退職し失業保険で冬を食いつなごうと考える者も出たが、約2年間にわたり失業保険の掛け金60万円が払い込まれていないことが判明。11月19日、ついにバス部門も閉鎖となった。退職金は支払われなかったが、失業保険は会社が未納分を分割払いで支払う約束ができ、支給された。
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