日本共産党の制動
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「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「日本共産党の制動」の解説
このような戦後学生運動の最初の昂揚の中心は当初は学園に戻った学生の純粋な反発・批判が中心であったが、その後復活した日本共産党にいち早く参加した学生党員やシンパ層が運動に拍車をかけ、彼らは組織者として生活と知の困窮に悩む学生を精力的に組織することで運動を拡大していった。しかしながら、共産党中央と学生党員との間にはこの時点で溝が生まれつつあった。党中央は学生の大衆運動に対する理論的な評価・位置づけを付することができておらず、また学生を指導できる人材も存在しなかった。当時の党の公式見解としては、学生は「階級的浮動分子」であり、プロレタリアートに指導されてはじめて階級闘争に寄与する「いかがわしい」存在であった。そのため、党中央は学生運動の爆発を快くは思っておらず、これが後に学生党員との軋轢につながっていった。党は学生組織として1946年2月に日本青年共産同盟を結成し、青共東大班を皮切りに全国大学に大学班・社研を結成していった。1946年までにブロック組織としての「学生連絡協議会」が生まれ、これが「学生政治協議会」のような全国的組織へと発展していった。同月には学生生活協議会も結成を見ている。5月26日には戦後はじめての滝川事件記念祭として、京橋公会堂で学生社会科学研究会連合会の主催で全国的な大会が催され、学生自治組織の確立、学生民主化戦線の即時結成などが決議された。これを受けて、6月に学生自治会連絡会が組織された。前述の早稲田大学の全学自治会結成をモデルとして11月、学生自治会連絡会は改組され学生自治会の連合体である全国学生自治会連合が発足した。 1946年秋になると、電産争議を境として生産管理闘争は弾圧により下降線をたどるようになり、労働運動は共産党指導下の全日本産業別労働組合会議(産別会議)に組織されたストライキ闘争として闘われるようになった。この中で、学生党員らは2・1ゼネストの敗北まで労働運動の中にオルグとして動員され、学生社会での運動は二の次のものとなっていた。ゼネスト前日の1月31日には、「人民広場」と称されていた皇居前広場において関東連合学生大会を開き、40校2万9千から3万人がデモを行った。2・1スト敗北後まもない2月7日、占領軍民間情報教育局(CIE)は「学生が自治の実験室から乗り越えて学校行政に不当介入することは排除されねばならぬ」との覚書を発した。これはGHQがこれまでの方針を転換し、文部省の政策に同調して学生自治を「実験室」に抑え込むことを支持するということを意味していた。各大学では学生の処分、反政府的な教職員の排除が行われ、これをもって学生運動は戦後初めての退潮期を迎えることとなる。この敗北による挫折感と弾圧の開始は学生活動家にも大きな影響を与え、授業料値上げ反対の学生大会すらお流れになるというような状況も現れていた。この間、日本共産党は学生党員に「学園へ戻れ」との召喚令を出していた。
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