日本共産党の制動とは? わかりやすく解説

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日本共産党の制動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 04:37 UTC 版)

全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「日本共産党の制動」の解説

このような戦後学生運動最初昂揚中心当初学園戻った学生純粋な反発批判中心であったが、その後復活した日本共産党いち早く参加した学生党員シンパ層が運動拍車をかけ、彼らは組織者として生活と知の困窮に悩む学生精力的に組織することで運動拡大していった。しかしながら共産党中央学生党員との間にはこの時点で溝が生まれつつあった。党中央学生大衆運動対す理論的な評価・位置づけ付することができておらず、また学生指導できる人材存在しなかった。当時の党の公式見解としては、学生は「階級的浮動分子」であり、プロレタリアート指導されてはじめ階級闘争寄与するいかがわしい存在であった。そのため、党中央学生運動爆発快く思っておらず、これが後に学生党員との軋轢つながっていった。党は学生組織として1946年2月日本青年共産同盟結成し青共東大班を皮切りに全国大学大学班・社研結成していった。1946年までにブロック組織としての学生連絡協議会」が生まれ、これが「学生政治協議会のような全国的組織へと発展していった。同月には学生生活協議会結成見ている。5月26日には戦後はじめての滝川事件記念祭として、京橋公会堂学生社科学研究連合会主催全国的な大会催され学生自治組織確立学生民主化戦線即時結成などが決議された。これを受けて6月学生自治会連絡会が組織された。前述早稲田大学全学自治会結成モデルとして11月学生自治会連絡会は改組され学生自治会連合体である全国学生自治会連合発足した1946年秋になると、電産争議を境として生産管理闘争弾圧により下降線をたどるようになり、労働運動共産党指導下の全日本産業別労働組合会議産別会議)に組織されストライキ闘争として闘われるようになったこの中で学生党員らは2・1ゼネスト敗北まで労働運動中にオルグとして動員され学生社会での運動二の次のものとなっていた。ゼネスト前日1月31日には、「人民広場」と称されていた皇居前広場において関東連合学生大会開き402万9千から3万人デモ行った2・1スト敗北後まもない2月7日占領軍民間情報教育局(CIE)は「学生自治実験室から乗り越えて学校行政不当介入することは排除されねばならぬ」との覚書発した。これはGHQこれまでの方針転換し文部省政策同調して学生自治を「実験室」に抑え込むことを支持するということ意味していた。各大学では学生の処分反政府的な教職員排除が行われ、これをもって学生運動戦後初めての退潮期迎えることとなる。この敗北による挫折感弾圧開始学生活動家にも大きな影響与え授業料値上げ反対学生大会すらお流れになるというような状況現れていた。この間日本共産党学生党員に「学園戻れ」との召喚令を出していた。

※この「日本共産党の制動」の解説は、「全日本学生自治会総連合の歴史」の解説の一部です。
「日本共産党の制動」を含む「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事については、「全日本学生自治会総連合の歴史」の概要を参照ください。

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