日本共産党の分裂と中国共産党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 20:43 UTC 版)
「日中共産党の関係」の記事における「日本共産党の分裂と中国共産党」の解説
第二次世界大戦での敗北後、1945年(昭和20年)12月の日本共産党第4回大会で徳田球一や宮本顕治など日本国内からの釈放者達によって日本共産党の活動が再開されると、1946年(昭和21年)1月に中国・延安から野坂参三が帰国し、同年2月の第5回日本共産党大会において「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョア民主主義革命を、平和的に、かつ民主主義的方法によって完成する事を当面の基本目標とする」とした「平和革命論」を定めた。この方式は一定の成果を収め、特に1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙では当選者35名を出す躍進を見せていた。 しかしコミンフォルムは、1950年(昭和25年)1月6日に『恒久平和のために人民民主主義のために!』において平和革命論について「アメリカ帝国主義を美化するものであり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない」とする野坂批判を行った。コミンフォルムの批判は日本共産党内に動揺を起こし、徳田球一は1月12日に「日本の実情も知らずに同志(野坂)の言動を批判することは重大な損害を人民並びに我が党に及ぼす」「一見方針が親米的に見えるだけで実質はそうではなく党の方針に誤りはない」とするコミンフォルムへの反論「政治局所感」を出したが、宮本顕治ら非主流派はこの所感に反対しコミンフォルムの批判を受け入れるべきという立場をとった(そのため宮本ら非主流派は「国際派」と呼ばれた。以下「国際派」と記す)。 一方、第二次国共内戦に勝利して1949年に毛沢東を中華人民共和国中央人民政府主席とする中華人民共和国の成立を宣言していた中国共産党もソ連を支持し、1950年月17日に機関紙『人民日報』において「野坂の平和的方法で国家権力を勝ち取るためにブルジョワを利用できるとする理論は誤りであり、徳田の所感の内容は遺憾である」としてコミンフォルムの批判の支持を表明し、野坂に自己批判を要求した。これを受けて野坂は1月18日にも平和革命論を自己批判するとともにコミンフォルムの批判を全面的に受け入れることを表明した。党内論争としては国際派の勝利という形になったが、徳田の所感に賛成した主流派(以下「所感派」と記す)はこの屈辱を捨て置かず、宮本ら国際派を左遷した。さらにレッドパージで共産党幹部の公職追放命令が出されると国際派を地上に残して地下に潜った。 地下に潜伏した所感派の徳田と野坂は1950年9月にも北京に亡命して北京機関を創設した。一方地上に残った宮本ら国際派は所感派に対抗するため12月に「日本共産党全国統一会議」を結成した。だが所感派は1951年(昭和26年)2月の第四回全国協議会(四全協)でこれを分派と認定し「分派闘争決議」を出した。徳田は北京で毛沢東、さらにモスクワに飛んでスターリンとも会談して中ソ両共産党の所感派への支持を確保した。その圧力を受けて国際派の幹部には自己批判書の提出が要求され、宮本も自己批判書の提出を余儀なくされて「統一会議」は解散となった。国際派の復党はすぐには認められず、宮本の指導部復帰が認められたのもようやく1954年(昭和29年)になってのことだった。 国際派を屈服せしめた所感派は四全協の「当面の基本的闘争方針」や、1951年10月の第5回全国協議会(五全協)の「日本共産党の当面の要求」(通称「51年綱領」)などにおいて激烈な武装闘争の方針を定め、地下放送の自由日本放送から指示を出して中核自衛隊などに武装闘争を行わせた。この「51年綱領」は中国共産党とスターリンの合作だったといわれ、中国共産党は「51年綱領」に対して満足の意を表明している。 しかし1952年(昭和27年)4月にはサンフランシスコ講和条約の発効で占領状態が解かれたことでレッドパージは解除された。1953年(昭和28年)3月にはスターリンが死去し、7月には膠着状態だった朝鮮戦争で休戦協定が結ばれ、10月には北京で徳田球一が死去した。一方、レッドパージと武装闘争、路線混乱の影響で日本共産党は国民の支持を大きく失い、1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では全員落選の惨敗となり、その後も勢力回復には長い時間を要して、武装蜂起を起こす口実がほぼなくなった上、革命成功の可能性も見込めなくなった。内外の変化を受け、平和共存路線へと歩み始めたソ連の勧告もあって1954年(昭和29年)頃から所感派と国際派は歩み寄りをはじめ、1955年(昭和30年)7月の第6回全国協議会(六全協)で党の再統一を果たし、中国革命方式の武装闘争路線の放棄を決議した。
※この「日本共産党の分裂と中国共産党」の解説は、「日中共産党の関係」の解説の一部です。
「日本共産党の分裂と中国共産党」を含む「日中共産党の関係」の記事については、「日中共産党の関係」の概要を参照ください。
- 日本共産党の分裂と中国共産党のページへのリンク