日本共産党の大型代表団の派遣ともの別れに終わった宮本・毛会談とは? わかりやすく解説

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日本共産党の大型代表団の派遣ともの別れに終わった宮本・毛会談

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 20:43 UTC 版)

日中共産党の関係」の記事における「日本共産党の大型代表団の派遣ともの別れに終わった宮本・毛会談」の解説

一九六六年二月日本共産党中央委員会は、ベトナム侵略反対国際統一戦線結成願ってベトナム中国朝鮮の三カ国の共産党労働党会談するために、大型代表団を送ることになった一行2月9日福岡若松港から中国貨物船上海向かい上海予備的な会談行った後に、2月17日ハノイ入ったハノイ10日滞在し共同コミュニケ調印し2月28日北京到着した北京1週間滞在して4回にわたって中国側会談したが「アメリカベトナム侵略反対する国際統一戦線」か、「反米反ソ統一戦線」かで双方の主張隔たり大きく共同コミュニケつながらないまま、一行朝鮮向かった3月11日平壌着き21日共同声明発表して同日北京経由してそのまま帰国するつもりだったが、中国側から共同コミュニケ発表しようという思いがけない提案があった。会談では中国側ソ連名指し批判するよう提案したが、日本側は同意せず、双方一致点三千字のコミュニケにまとめ上げた一行上海にいる毛沢東訪れて最終的にコミュニケ承認することになっていたが、宮本らはこの会談形式的なもので、コミュニケそのまま了承されると思っていた。ところが、宮本らを迎えた毛沢東は、コミュニケ内容軟弱だ批判しコミュニケ発表されず、毛沢東は「この会談なかったことにしよう」と言い宮本らはそのまま帰国した

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