日本共産党の大型代表団の派遣ともの別れに終わった宮本・毛会談
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一九六六年二月、日本共産党中央委員会は、ベトナム侵略反対の国際統一戦線の結成を願って、ベトナム、中国、朝鮮の三カ国の共産党、労働党と会談するために、大型の代表団を送ることになった。一行は2月9日に福岡の若松港から中国の貨物船で上海に向かい、上海で予備的な会談を行った後に、2月17日にハノイに入った。ハノイに10日間滞在し、共同コミュニケに調印し、2月28日に北京に到着した。北京に1週間滞在して4回にわたって中国側と会談したが「アメリカのベトナム侵略に反対する国際統一戦線」か、「反米反ソの統一戦線」かで双方の主張の隔たりが大きく、共同コミュニケにつながらないまま、一行は朝鮮に向かった。3月11日に平壌に着き、21日に共同声明を発表して、同日北京を経由してそのまま帰国するつもりだったが、中国側から共同コミュニケを発表しようという思いがけない提案があった。会談では中国側がソ連を名指しで批判するよう提案したが、日本側は同意せず、双方の一致点を三千字のコミュニケにまとめ上げた。一行は上海にいる毛沢東を訪れて最終的にコミュニケを承認することになっていたが、宮本らはこの会談は形式的なもので、コミュニケはそのまま了承されると思っていた。ところが、宮本らを迎えた毛沢東は、コミュニケの内容が軟弱だと批判し、コミュニケは発表されず、毛沢東は「この会談はなかったことにしよう」と言い、宮本らはそのまま帰国した。
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