日本共産党の武装闘争とは? わかりやすく解説

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日本共産党の武装闘争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:39 UTC 版)

武装闘争」の記事における「日本共産党の武装闘争」の解説

51年綱領」および「敵の出方論」も参照 日本共産党では、1951年第4回全国協議会(四全協)より山村工作隊などの武装闘争路線採用された。更に同年10月開催され第5回全国協議会五全協)で「51年綱領」が採択され火炎瓶用いた武装闘争各地繰り広げられた。 しかし、1952年第25回衆議院議員総選挙で候補者が全員落選してしまい、著し党勢衰退を招くことになった。党を立て直すため、1955年日本共産党第6回全国協議会六全協)では武装闘争路線転換し権力暴力革命運動抑圧しない限り革命運動暴力行使しない、という「敵の出方論」を採用した権力奪取が「武装闘争」になるか否かは、まさに「状況次第ということになる。 この協議会で、当初の「農村から都市部包囲」という中国共産党型の暴力革命路線放棄した日本共産党国会議員地方議員大部分は、暴力革命支持して暴力活動参加した徳田派だったのにもかかわらず暴力路線日本国内テロをしていたのを「党の一部」だとして、責任徳田球一にのみ押し付けたことは無責任だ批判されている。 山村工作隊などの活動参加していた学生党員は、突然の路線転換衝撃を受け、日本共産党去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。また、日本共産党戦後から再開した武装闘争路線信奉する急進的な学生党員は、新指導部への不信・不満を募らせ、のちの共産主義者同盟結成新左翼過激派誕生へと向かう種が、この六全協によって蒔かれた。 既成左翼政党として日本社会党だけでなく日本共産党までもが武装闘争路線事実上放棄したとして反発した大学生中心に当初日本共産党武装路線継続する過激派新左翼」が誕生した。そのため、武装革命賛同して戦後日本暴力行為扇動参加していた多数党員は、日本の新左翼誕生責任日本共産党が負うべきと、元党員からも批判されている。

※この「日本共産党の武装闘争」の解説は、「武装闘争」の解説の一部です。
「日本共産党の武装闘争」を含む「武装闘争」の記事については、「武装闘争」の概要を参照ください。

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