武装闘争の指示・客死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 09:27 UTC 版)
亡命先の北京では、北京機関または德田機関と呼ばれる非公然の日本共産党指導部を組織し、ソ連や中国の意向に沿った武装闘争方針を掲げた。 徳田は1951年4月には野坂参三・西沢隆二らとともにモスクワに赴き、綱領案を作成した。この綱領案は、同年10月に第五回全国協議会で承認を受け、暴力革命必然論に基づく日本共産党の武装闘争が明文化された(51年綱領)。徳田はその後も1952年に開設された地下放送の「自由日本放送」を通じて亡命先から武装闘争方針を指示した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかし、やがて北京機関内部では国際派との妥協を唱える野坂参三 ・西沢隆二らとの対立が表面化する。1951年(昭和26年)7月には徳田は自己批判をおこなっている。[要出典] 1952年(昭和27年)9月末に入院、まもなく意識不明の重体となった。1953年(昭和28年)、脳細胞血管の痙攣のため北京で病死。徳田の死は1955年7月まで公表されなかった。同年9月13日に北京で開催された徳田の追悼大会には3万人が参列した。
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