武装闘争の実行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 01:27 UTC 版)
これらの軍事方針が実行に移されるようになるのは1952年(昭和27年)に入ってからで、1952年1月白鳥事件(札幌の白鳥一雄警部射殺事件)、青梅事件(東京・青梅線の貨車暴走事件)、小河内村山村工作隊事件(東京小河内村の山村工作隊一斉検挙)と大小無数の武装衝突事件が起こった。東京のメーデー事件(2人射殺、1,230人検挙)、東京新宿駅前・板橋岩之坂交番所などでの火炎瓶騒擾事件(3人射殺、102人検挙)、大阪の吹田事件、7月7日名古屋の大須事件(121人検挙)といった街頭衝突で、デモ隊は盛んに火炎瓶を投げて武装警官へのテロを行った。中核自衛隊は、陽動目的で作られた組織とされる。 1952年2月1日、「中核自衛隊の組織と戦術」が球根栽培法第二巻第27号に掲載。 1952年5月1日に皇居外苑で起こった血のメーデー事件を背景に1952年7月21日に破壊活動防止法が制定施行された。 1950年分裂と極左冒険主義を自己批判した1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で非合法組織が解散。のち1958年7月の第7回大会で51年綱領も廃止される。 1952年春から夏にかけて破壊活動防止法(破防法)案反対の大衆運動が激しく展開、この運動の最中、火炎ビンが投げられ、地下組織が起こした事件とされる。 森田実によれば、1957年以後、共産党中央本部と対決し、学生運動を共産党の影響下から離脱させる方向へ動いたのは森田がフルシチョフのスターリン批判を知り、共産主義を人道主義から批判したからであるという。森田は1958年、日本共産党中央によって除名処分された。さらに除名後森田は日本共産党に批判的な学生活動家、島成郎に協力して共産主義者同盟(ブント)を結成したが、その後離脱した。
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