日本共産党再建と国会議員時代
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「中西伊之助」の記事における「日本共産党再建と国会議員時代」の解説
終戦後の1945年に「人民文化同盟」を結成、同年12月には機関誌『人民戦線』を発行(1949年7月休刊)し、人民政府樹立への機運を高めることとなる。その一方で日本共産党に入党し、神奈川県藤沢市片瀬の自宅で同年10月30日、政府の苛烈な弾圧を受け壊滅状態にあった同県委員会の再建を果たす。 戦後初の1946年に行われた第22回衆議院議員総選挙にて、神奈川県から日本共産党公認で出馬するも落選するが、同選挙区から公職追放者(日本自由党の河野一郎)が出たことに伴い、繰り上げ当選となる。衆議院議員として日本国憲法制定には反対票を投じた。しかし、翌1947年の衆院選では落選(選挙区は神奈川3区)。 1949年の衆院選で神奈川3区から当選したが、所謂「50年問題」により党内が国際派、所感派両派に分かれる中、武装闘争路線に抗議し、1952年6月脱党。翌1953年の参院選に、全国区から無所属で出馬するが当選には至らなかった。
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