退潮期
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1981年(昭和56年)当時の会長柴田司郎は八七会幹部の高齢化を心配し、豊川海軍工廠工員養成所出身者で結成する豊養会に協力を要請した。1983年(昭和58年)には工員養成所第4期生の彦坂実が第5代会長に就任した。この頃までは豊川海軍共済病院の関係者が中心メンバーであり、また、会長と言っても名誉職的なところがあった。養成所出身者が会長になったことは会の中心が次の世代に移ったことを意味した。このころより石碑の建立が毎年のように行われ、次代への継承がより意識されていく。 2005年(平成17年)8月7日、60周年の慰霊祭を最後のものとし、以後慰霊祭を行わないこととなった。最年少の会員が70代となっており苦渋の決断であった。毎年の慰霊祭がなくなった後も、供養塔の清掃、犠牲者の供養、語り継ぎ活動は継続された。 2009年(平成21年)6月に彦坂会長が亡くなり第6代に大石辰己が就任すると、翌年の役員会で豊川市に平和公園を造る計画が話題となった。語り継ぎの拠点である記念館の建設は長らく会の悲願であり、その実現に向け、体験を語り、平和への思いを伝えることで支援することとなった。また、豊川海軍工廠語り継ぎボランティアの養成にも協力した。 2018年(平成30年)の豊川海軍工廠平和公園開園に際して、放送設備とともに多くの関連書籍や資料を寄贈。その書籍は園内の豊川市平和交流館にて「八七会文庫」として顕彰公開されている。 2021年(令和元年)9月大石会長が急逝。会員が高齢化した八七会は次の会長を選出することなく、翌年8月7日、会としての活動を終了した。
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