第3、第4の哨戒 1944年6月 - 10月
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「フラッシャー (潜水艦)」の記事における「第3、第4の哨戒 1944年6月 - 10月」の解説
6月19日、フラッシャーは3回目の哨戒でアングラー、クレヴァルとともにウルフパックを構成し南シナ海に向かった。ところが、6月22日に燃料補給のためエクスマウス湾(英語版)に立ち寄った際に乗組員の一人が急病になり、退艦の上でOS2U キングフィッシャーに乗せられ、医療施設に搬送されていった。6月28日深夜、フラッシャーは北緯00度44分 東経105度32分 / 北緯0.733度 東経105.533度 / 0.733; 105.533のシンガポール海峡南東130キロの地点で、海防艦などを伴ったミシ03船団を発見した。フラッシャーは護衛艦に察知されないよう慎重に近づき、日付が6月29日に変わってから攻撃を開始。まず先頭と二番目の輸送船に対して魚雷を3本発射し、転舵してから三番目の目標に対して艦尾発射管から魚雷を4本発射。魚雷は2本が輸送船日邦丸(元スウェーデン船ニンボー、日本郵船、6,079トン)に命中し、日邦丸は船首から沈没。水上機母艦能登呂にも1本以上が命中して大破した。7月1日にアングラー、クレヴァルと会合して新たな哨区を確認したあと、ヴァレラ岬近海の哨区に到着する。7月7日夜、フラッシャーはレーダーで目標を探知して追跡し、日付が7月8日に変わる前後に北緯13度08分 東経109度28分 / 北緯13.133度 東経109.467度 / 13.133; 109.467の地点で魚雷を4本発射。魚雷は1本が特設運送船第二号興東丸(朝鮮郵船、3,557トン)に命中して撃沈。しばらくしてから激しい爆雷攻撃があったものの、難なく切り抜けた。7月13日朝には輸送船団を発見して接近を試みるが、船団中の輸送船六甲丸(東亜海運、3,038トン)に通報され制圧される。7月18日から19日にかけて荒天に見舞われるが、その最中の7月19日午前、フラッシャーは北緯13度12分 東経114度52分 / 北緯13.200度 東経114.867度 / 13.200; 114.867の地点で目視により「球磨型軽巡洋艦」を発見する。駆逐艦敷波を従えマニラからシンガポールに向かっていた軽巡洋艦大井はこの日の早朝、フラッシャーと思われる潜水艦を探知し回避運動を行っていたが、燃料を考慮して18ノットの速力でシンガポールに急行していた。フラッシャーは最初大井の前方に位置していたが、大井が依然ジグザグ運動をするので大井の前方を横切って、艦尾発射管から攻撃する態勢をとった。12時14分、フラッシャーは大井に対して魚雷を4本発射した。3本は大井をかすめたものの、残る魚雷1本が左舷機関室付近に命中したため、大井は後部機械室の火災と前部機械室の蒸気漏れにより航行を停止した。敷波が爆雷攻撃を行っている間に、フラッシャーは14時30分に2回目の魚雷発射を実施。大井の左舷側から魚雷を4本発射したが、3本は偏斜して大井の艦首をかすめさり、残り1本は行方不明となった。フラッシャーは一度現場を去って浮上し、アングラーとクレヴァルにこちらに向かうよう打電した後、3回目の魚雷攻撃を実施すべく深度45メートルに潜って作業を行いながら大井に三度接近していったが、この間に大井は損傷部から艦体を切断し、その部分から急速に沈没していった。フラッシャーが大井の姿を見ることはもはやなく、救助作業を行っている敷波の姿しか見なかった。7月25日朝、フラッシャーは輸送船団、シンガポールから日本に向かっていたヒ68船団からのものと思しき煙を発見し、アングラーとクレヴァルにその旨を通報して迎撃態勢に移る。午後、クレヴァルが2隻の陸軍輸送船、安芸丸(日本郵船、11,409トン)と東山丸(大阪商船、8,666トン)に対して魚雷を発射したが、両船とも回避した。ヒ68船団は全速力で北上を続けたが、行く手にはアングラーから通報を受けたフラッシャーが立ちふさがり、北緯18度10分 東経117度56分 / 北緯18.167度 東経117.933度 / 18.167; 117.933の地点で一番目と三番目の輸送船に魚雷を3本ずつ発射したあと、転舵して離脱。魚雷は安芸丸、東山丸に1本ずつ、2TMタンカー大鳥山丸(三井船舶、5,280トン)に2本が命中し、大鳥山丸は燃料に引火の末に大爆発を起こして沈没、安芸丸および東山丸は航行不能の被害を受ける。このあと、アングラーが特設運送艦聖川丸(川崎汽船、6,862トン)に魚雷を1本命中させて聖川丸は高雄に回航され、クレヴァルは早朝と午前の二度の攻撃で安芸丸と東山丸に再び魚雷を命中させ、安芸丸は間もなく沈没し、東山丸は7月27日早朝に弾薬に引火し、丸一日を経た7月27日午前に爆沈した。魚雷を全て使い果たしたフラッシャーはクレヴァルからの戦果報告を受信したのち、ミンドロ海峡から南下していった。8月7日、フラッシャーは49日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 8月30日、フラッシャーは4回目の哨戒でルソン島西岸部に向かった。この哨戒期間中、フィリピン侵攻に先立つ第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の救助任務も担当していた。9月18日10時48分、フラッシャーは北緯14度20分 東経120度05分 / 北緯14.333度 東経120.083度 / 14.333; 120.083のマニラ西方バターン半島マリベレス西南西30キロの地点で、ヒ75船団から分離してマニラに向かっていた特設巡洋艦西貢丸(大阪商船、5,350トン)、水上機母艦秋津洲、駆逐艦卯月と夕月を発見。魚雷を5本発射し、うち2本が西貢丸に命中して搭載の機雷の爆発により轟沈した。9月27日朝には北緯15度32分 東経117度16分 / 北緯15.533度 東経117.267度 / 15.533; 117.267の地点でミマ11船団を発見。魚雷を4本発射し、うち2本が陸軍船うらる丸(大阪商船、6,375トン)に命中し、左舷側に倒れて沈没した。9月29日にはボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) およびレイポン (USS Lapon, SS-260) と会合して、哨区に再編成が行われる。10月4日朝、フラッシャーは北緯15度26分 東経119度49分 / 北緯15.433度 東経119.817度 / 15.433; 119.817のパラウイ岬の西方5キロ地点でミ19船団を発見し、2隻の輸送船に対して魚雷を3本ずつ発射。魚雷は輸送船大敏丸(大阪商船、6,886トン)に1本が命中して撃沈した。10月6日朝にも北緯15度31分 東経119度48分 / 北緯15.517度 東経119.800度 / 15.517; 119.800の地点で輸送船団に対して魚雷を4本発射したが、命中しなかった。10月20日、フラッシャーは51日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がジョージ・W・グライダー中佐(アナポリス1936年組)に代わった。
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