第一次マリナーズ時代とは? わかりやすく解説

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第一次マリナーズ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 08:42 UTC 版)

ケン・グリフィー・ジュニア」の記事における「第一次マリナーズ時代」の解説

1987年のMLBドラフトシアトル・マリナーズから1巡目全体1位)に指名を受け入団。父のシニア当時現役で、2世選手対す風当たり強く人種差別受けたため自殺図ったこともあった。ショートシーズンA級で54試合出場して打率.313、14本塁打40打点13盗塁記録1988年にはアドバンスドA級に昇格58試合出場して打率.338、11本塁打42打点32盗塁好成績残しシーズン終盤AA級に昇格した1989年スプリングトレーニングでは打率.359、2本塁打記録し33安打21打点15試合連続安打球団スプリングトレーニング新記録となるなど活躍開幕メジャー入り果たした4月3日オークランド・アスレチックス戦で、19歳4ヶ月若さメジャーデビュー。初打席二塁打記録し4月23日から26日にかけて球団タイ記録となる5試合連続複数安打記録した7月23日時点メジャー新人選手3冠となる打率.287、13本塁打45打点記録していたが、7月25日から8月20日にかけて小指負傷により故障者リスト入りし、復帰後は調子落としたシーズン通算127試合出場し打率.264、16本塁打61打点記録新人王投票ではグレッグ・オルソン、トム・ゴードンに次ぐ3位入った1990年中堅手レギュラー獲得4月26日ニューヨーク・ヤンキース戦では、ジェシー・バーフィールド通算200号本塁打となるはずだった打球フェンスに登って捕球し阻止するというプレーもあった。オールスターゲーム投票では、ホセ・カンセコに次ぐリーグ2位の2,159,700票を集め1955年アル・ケーライン次いで史上2番目の若さ選出され、「5番中堅手」で先発出場果たした。父シニア8月24日成績不振のためレッズ解雇されその5日後にマリナーズ契約を結び、8月31日カンザスシティ・ロイヤルズ戦で史上初め親子同時にスターティングメンバー名を連ねた。更に9月14日には初回親子での2者連続本塁打達成した自身初のゴールドグラブ賞1968年ジョニー・ベンチに次ぐ史上2番目の若さ受賞この年日米野球にも親子揃って選出され来日している。 1991年には自己ベストリーグ4位の打率.327を記録し7月23日には自身初となる満塁本塁打放ち9月30日ダブルヘッダー初戦MLB史上12番目の若さ100打点到達。初のシルバースラッガー賞2度目ゴールドグラブ賞受賞した同年シニア引退現役生活19年だった。 1992年6月8日テキサス・レンジャーズ戦の死球影響翌日からDL入りしたが、6月25日復帰142試合出場し2年連続の3割、20本塁打100打点記録し3度目ゴールドグラブ賞受賞また、オールスターゲームでは当時シカゴ・カブス所属していたグレッグ・マダックスから本塁打放つなど、3打数3安打MVP受賞している。9月30日ミルウォーキー・ブルワーズ戦で3点本塁打放ち球団史初め2年連続100打点達成した1993年113得点359塁打45本塁打球団記録となった6月15日ロイヤルズ戦で史上6番目の若さ通算100本塁打達成し7月には8試合連続本塁打MLBタイ記録達成した。そして9月1日球団史上初の40本塁打達成し45本まで記録伸ばしたが、本塁打王にはフアン・ゴンザレスに1本及ばなかった。 1994年4月球団月間新記録となる20打点マークし5月31日までにミッキー・マントル20本塁打1956年)を上回る22本塁打放ちMLB新記録となった5月23日通算153本塁打放ち新人だった時の目標である父の152本塁打上回った6月12日には球団新記録となる通算161本塁打目を放ち6月30日までにベーブ・ルース30本塁打1928年1930年)を上回る32本塁打放ちMLB新記録となったオールスターゲームファン投票では1977年ロッド・カルー記録した4,292,740票を更新する史上最高の6,079,688票を集めた1994年から1995年のMLBストライキによりシーズン8月12日限り打ち切られたが、40本塁打記録して球団史上初の最多本塁打獲得しMVP投票ではフランク・トーマス次いで2位入った1995年5月26日守備フェンス激突した際に左手首を痛めて全治3か月大怪我をした。オールスターゲームではファン投票選出される出場辞退せざるを得なかった(野茂英雄グリフィーを「近鉄同僚だった新井宏昌ラルフ・ブライアント両者長所ミックスした男」と評し最も対戦楽しみにしていた)。8月15日復帰果たしその日史上7番目の若さ通算1000本安打を達成プレーオフでは6本塁打記録するなど活躍したものの、チームリーグチャンピオンシップシリーズクリーブランド・インディアンス敗退した同年72試合出場終わったが、ゴールドグラブ賞受賞している。 1996年5月21日史上7番目の若さ通算200本塁打達成した6月19日右手有鈎骨骨折し、約3週間離脱余儀なくされたが、それでも自己の持つ球団記録更新する49本塁打記録した1997年4月MLB新記録月間13本塁打放ち9月7日史上15人目となるシーズン50本塁打達成した打率.304、56本塁打147打点記録し2度目本塁打王、初の打点王、そして初のMVP満票受賞した。これは史上13人目快挙である。チーム地区優勝果たした1998年4月13日史上2番目の若さ通算300本塁打を、9月25日史上最年少通算350本塁打達成した56本塁打放ち2年連続となる本塁打王獲得20盗塁記録したことでウィリー・メイズブレイディ・アンダーソンに次ぐ史上3人目50本塁打-20盗塁達成する。さらに、3年連続140打点以上も記録。これはベーブ・ルースルー・ゲーリッグに次ぐ史上3人目快挙である。しかし、ナリーグマーク・マグワイア70本、サミー・ソーサ66本と本塁打シーズン記録更新したため注目されなかった。ただ、このシーズン最多本塁打記録する可能性があるとして注目されていたのは、7月まではマグワイアジュニア二人であった。しかしジュニア7月大きく失速しソーサあけられた形となった1999年オールスターゲーム本塁打競争2年連続3度目優勝果たしシーズンでも48本塁打放ち3年連続4度目本塁打王自己最多24盗塁記録。また10年連続となるゴールドグラブ賞7度目のシルバースラッガー賞獲得した。さらにMLBオールセンチュリー・チームにも選ばれた。 オフ家族が暮らすフロリダからはシアトルが遠いということ理由に、マリナーズ提示した8年1億3500ドル契約拒否しトレード志願[要出典]。トレード交渉難航し一時球団間ではニューヨーク・メッツとのトレード決まりかけたが、グリフィー自身拒否。年が明けて移籍先は決まらず、結局マリナーズ残留かに思われたが、ファンから脅迫状届いた事からメンタル的に残留不可能とし、交渉再開

※この「第一次マリナーズ時代」の解説は、「ケン・グリフィー・ジュニア」の解説の一部です。
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