第一次マリナーズ時代
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「ケン・グリフィー・ジュニア」の記事における「第一次マリナーズ時代」の解説
1987年のMLBドラフトでシアトル・マリナーズから1巡目(全体1位)に指名を受け入団。父のシニアは当時現役で、2世選手に対する風当たりは強く、人種差別を受けたため自殺を図ったこともあった。ショートシーズンA級で54試合に出場して打率.313、14本塁打、40打点、13盗塁を記録。 1988年にはアドバンスドA級に昇格、58試合に出場して打率.338、11本塁打、42打点、32盗塁の好成績を残し、シーズン終盤にAA級に昇格した。 1989年のスプリングトレーニングでは打率.359、2本塁打を記録し、33安打、21打点、15試合連続安打は球団のスプリングトレーニング新記録となるなど活躍、開幕メジャー入りを果たした。4月3日のオークランド・アスレチックス戦で、19歳4ヶ月の若さでメジャーデビュー。初打席で二塁打を記録し、4月23日から26日にかけて球団タイ記録となる5試合連続複数安打を記録した。7月23日時点でメジャー新人選手3冠となる打率.287、13本塁打、45打点を記録していたが、7月25日から8月20日にかけて小指の負傷により故障者リスト入りし、復帰後は調子を落とした。シーズン通算で127試合に出場し、打率.264、16本塁打、61打点を記録。新人王の投票ではグレッグ・オルソン、トム・ゴードンに次ぐ3位に入った。 1990年は中堅手のレギュラーを獲得。4月26日のニューヨーク・ヤンキース戦では、ジェシー・バーフィールドの通算200号本塁打となるはずだった打球をフェンスに登って捕球し阻止するというプレーもあった。オールスターゲームの投票では、ホセ・カンセコに次ぐリーグ2位の2,159,700票を集め、1955年のアル・ケーラインに次いで史上2番目の若さで選出され、「5番・中堅手」で先発出場を果たした。父シニアが8月24日に成績不振のためレッズを解雇され、その5日後にマリナーズと契約を結び、8月31日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で史上初めて親子が同時にスターティングメンバーに名を連ねた。更に9月14日には初回に親子での2者連続本塁打も達成した。自身初のゴールドグラブ賞を1968年のジョニー・ベンチに次ぐ史上2番目の若さで受賞。この年の日米野球にも親子揃って選出され、来日している。 1991年には自己ベスト、リーグ4位の打率.327を記録し、7月23日には自身初となる満塁本塁打を放ち、9月30日のダブルヘッダー初戦でMLB史上12番目の若さで100打点に到達。初のシルバースラッガー賞と2度目のゴールドグラブ賞を受賞した。同年シニアは引退。現役生活は19年だった。 1992年は6月8日のテキサス・レンジャーズ戦の死球の影響で翌日からDL入りしたが、6月25日に復帰。142試合に出場し、2年連続の3割、20本塁打、100打点を記録し、3度目のゴールドグラブ賞を受賞。また、オールスターゲームでは当時シカゴ・カブスに所属していたグレッグ・マダックスから本塁打を放つなど、3打数3安打でMVPを受賞している。9月30日のミルウォーキー・ブルワーズ戦で3点本塁打を放ち、球団史上初めて2年連続100打点を達成した。 1993年は113得点、359塁打、45本塁打は球団記録となった。6月15日のロイヤルズ戦で史上6番目の若さで通算100本塁打を達成し、7月には8試合連続本塁打のMLBタイ記録を達成した。そして9月1日に球団史上初の40本塁打を達成し、45本まで記録を伸ばしたが、本塁打王にはフアン・ゴンザレスに1本及ばなかった。 1994年は4月に球団月間新記録となる20打点をマークし、5月31日までにミッキー・マントルの20本塁打(1956年)を上回る22本塁打を放ち、MLB新記録となった。5月23日に通算153本塁打を放ち、新人だった時の目標である父の152本塁打を上回った。6月12日には球団新記録となる通算161本塁打目を放ち、6月30日までにベーブ・ルースの30本塁打(1928年、1930年)を上回る32本塁打を放ち、MLB新記録となった。オールスターゲームのファン投票では1977年にロッド・カルーが記録した4,292,740票を更新する史上最高の6,079,688票を集めた。1994年から1995年のMLBストライキによりシーズンは8月12日限りで打ち切られたが、40本塁打を記録して球団史上初の最多本塁打を獲得し、MVPの投票ではフランク・トーマスに次いで2位に入った。 1995年5月26日、守備でフェンスに激突した際に左手首を痛めて全治3か月の大怪我をした。オールスターゲームではファン投票で選出されるも出場を辞退せざるを得なかった(野茂英雄はグリフィーを「近鉄で同僚だった新井宏昌とラルフ・ブライアントの両者の長所をミックスした男」と評し最も対戦を楽しみにしていた)。8月15日に復帰を果たし、その日に史上7番目の若さで通算1000本安打を達成。プレーオフでは6本塁打を記録するなど活躍したものの、チームはリーグチャンピオンシップシリーズでクリーブランド・インディアンスに敗退した。同年は72試合の出場に終わったが、ゴールドグラブ賞を受賞している。 1996年5月21日史上7番目の若さで通算200本塁打を達成した。6月19日に右手の有鈎骨を骨折し、約3週間の離脱を余儀なくされたが、それでも自己の持つ球団記録を更新する49本塁打を記録した。 1997年4月にMLB新記録の月間13本塁打を放ち、9月7日に史上15人目となるシーズン50本塁打を達成した。打率.304、56本塁打、147打点を記録し、2度目の本塁打王、初の打点王、そして初のMVPを満票で受賞した。これは史上13人目の快挙である。チームも地区優勝を果たした。 1998年4月13日に史上2番目の若さで通算300本塁打を、9月25日に史上最年少で通算350本塁打を達成した。56本塁打を放ち2年連続となる本塁打王を獲得、20盗塁も記録したことでウィリー・メイズ、ブレイディ・アンダーソンに次ぐ史上3人目の50本塁打-20盗塁も達成する。さらに、3年連続140打点以上も記録。これはベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグに次ぐ史上3人目の快挙である。しかし、ナリーグでマーク・マグワイアが70本、サミー・ソーサが66本と本塁打のシーズンを記録を更新したため注目されなかった。ただ、このシーズンで最多本塁打を記録する可能性があるとして注目されていたのは、7月まではマグワイアとジュニアの二人であった。しかしジュニアは7月に大きく失速し、ソーサに水をあけられた形となった。 1999年はオールスターゲームの本塁打競争で2年連続3度目の優勝を果たし、シーズンでも48本塁打を放ち3年連続4度目の本塁打王、自己最多の24盗塁を記録。また10年連続となるゴールドグラブ賞、7度目のシルバースラッガー賞を獲得した。さらにMLBオールセンチュリー・チームにも選ばれた。 オフに家族が暮らすフロリダからはシアトルが遠いということを理由に、マリナーズが提示した8年1億3500万ドルの契約を拒否しトレードを志願[要出典]。トレード交渉は難航し、一時球団間ではニューヨーク・メッツとのトレードが決まりかけたが、グリフィー自身が拒否。年が明けても移籍先は決まらず、結局マリナーズ残留かに思われたが、ファンから脅迫状が届いた事からメンタル的に残留は不可能とし、交渉が再開。
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