第一次メルバーン子爵内閣
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「ウィリアム・ラム (第2代メルバーン子爵)」の記事における「第一次メルバーン子爵内閣」の解説
1834年5月のアイルランド国教会に収められる教会税の転用問題をめぐって閣内は分裂し、転用に反対する陸軍・植民地大臣スタンリー卿(後のダービー伯爵)らホイッグ党右派が離党したことでグレイ伯爵内閣は1834年7月に総辞職した。グレイ伯爵は国王ウィリアム4世に後任の首相としてメルバーン子爵を推挙した。これは退任する首相が後任の首相を国王に推挙した初めての事例となった。 しかしホイッグ左派のジョン・ラッセル卿を庶民院院内総務にすることに反対した国王ウィリアム4世とメルバーン子爵の対立が深まり、国王は1834年11月14日にはメルバーン子爵を罷免したため、この第一次メルバーン子爵内閣(英語版)は短命政権に終わった。 もっともメルバーン子爵にとって罷免は計算のうちであったという。というのも少数党の保守党(トーリー党)政権をわざと誕生させることでその無能さを晒し、すぐに政権復帰して政権の安定化を図ることができると考えられたからである。
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