第一次モロッコ事件をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「第一次モロッコ事件をめぐって」の解説
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は1897年にアルフレート・フォン・ティルピッツ提督を海軍長官に任じて以降、海軍力増強を押し進めていた。イギリスもジョン・アーバスノット・フィッシャー提督が1904年に第一海軍卿に就任してから海軍増強を急ピッチに進め、英独は建艦競争の時代へ入ろうとしていた。 そんな中の1905年3月31日、ヴィルヘルムは、フランスが植民地化を狙っていたモロッコ・タンジールに上陸し、モロッコの領土保全と門戸開放を訴えることでフランスの植民地政策を牽制する行動に出た(第一次モロッコ事件)。その後ドイツ政府はモロッコ問題の国際会議を提唱したが、これに対してフランス政府はまず独仏の二国間会議を開くべきと反論し、両者の主張は平行線をたどった。 イギリス政府も国際会議開催には慎重だった。駐タンジール英国領事サー・ジェラルド・ロウサは「ドイツはモロッコ問題の国際会議を開くことで英仏協商を修正させたいのではないか」という報告書をエドワードに送ったが、エドワードは欄外に「平たく言えばドイツはフランスをモロッコから追い出してその後釜に座りたいだけではないか!」と書いて怒りを示している。しかしエドワードは国際会議を開いた方がフランスのモロッコ権益がより保証されると考えていたので、国際会議に反対しなかった。またフランス政府も、列強各国と交渉を重ねるうちに実際に国際会議が開かれたとしてもドイツを支持する列強はないとの確信を強め、7月頃から国際会議開催に前向きになった。独仏両国が前向きである以上、イギリス政府としても会議に反対するわけにはいかなくなった。 こうして1906年1月16日からスペインでアルヘシラス会議が開催された。モロッコの警察問題をめぐって独仏が紛糾する中の3月初旬、エドワードはフランスとの関係を強化しようとビアリッツの「オテル・デュ・パレ」の訪問を決定した(以降ここを定宿と定めて1910年の崩御まで定期的に訪問した)。その道中にパリに立ち寄り、アルマン・ファリエール大統領やモーリス・ルーヴィエ(フランス語版)首相らと会談し、モロッコの湾岸都市の警察権を手放すつもりはないというフランスの立場に支持を表明した。 さらにエドワードは、駐イタリア・アメリカ大使ヘンリー・ホワイト(英語版)を通じて日露講和を斡旋した実績のあるアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトにこの問題でも積極的に介入してほしいと依頼した。英外相エドワード・グレイや外務省事務次官(英語版)チャールズ・ハーディングは、ルーズベルトの介入に不満があったものの、結果的にはアメリカの強力なリーダシップのおかげでアルヘシラス会議は決裂することなく、4月7日に条約締結に至った。この条約によりモロッコの独立と領土の保全が保証され、モロッコにおける各国の通商の自由も保証された。また焦点だった警察問題は、モロッコの8つの湾岸都市についてフランスとスペインの警察権が認められることになり、フランス有利の結果に終わった。この会議は英仏の連携がいよいよ強固になったこと、またアメリカがモンロー主義を脱却して他の大陸の問題にも本格的に介入するようになったことを示していた。
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