略歴・人物像
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沖縄県立読谷高等学校に2年在籍した後明治大学付属中野高等学校定時制に転校し、同校卒業。4人きょうだいの2番目(兄、妹、弟がいる)。ソフトボールでは三塁手として西日本大会に出場した経験がある。 1982年11月、極東放送主催の『ロックンロール・ツイストジルバコンテスト』に出場して優勝。 1983年夏に第7回長崎歌謡祭に沖縄代表で出場、グランプリに選ばれる。同年11月にアイドル歌手山口由佳乃(やまぐち ゆかの)としてポリドール・レコードからデビュー。代表曲は、アネーカの『Japanese boy』を日本語でカヴァーした、『チャイニーズ・ボーイ』。 1984年には山口由佳乃としてNHK「レッツゴーヤング」でサンデーズのメンバーであった。 1993年12月にオーディションに合格し、劇団四季に入団。初舞台は「魔法をすてたマジョリン」のアンサンブルである。 『キャッツ』のジェニエニドッツ役は、2005年から務めている。 猫好き で数匹の猫を飼っている。
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略歴・人物像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/30 08:11 UTC 版)
1990年沖縄国際大学卒業後、4月にRBCラジオのラジオカーリポーターとして採用。デビューは「ここほれワンワン ほり出し中古車情報」の午後ワイド番組の1コーナーのリポーターだった。 リポーターの実績が買われ、同年10月に当時人気の深夜ローカル番組だった「ラジオジャック」の月曜担当のアシスタントに起用された(メインパーソナリティーは箕田和男アナ)。 デビュー当初数ヶ月間は本名の大田和正で名乗ったが、もともと色黒で、ラジオジャックでテレビ時代劇「怪傑黒頭巾」のパロディーであるラジオドラマ「怪傑白頭巾」で“クロマル”役を演じたことから、“クロマル”の役名がそのままニックネーム・芸名となった。 1992年10月5日、箕田和男アナの後を受けて、ラジオジャックの月曜のメインパーソナリティー就任・昇格となった。そして1993年10月から同番組の後番組となる「ラジ・ゲリラ」でも引き続き木曜のパーソナリティーを務め、現在では人気グループDA PUMPのリーダーであるISSA(辺土名一茶)の姉で元アイドルの里中茶美がアシスタントに起用した。さらに1995年からは「ナマやさ HOT WAVE」(コカ・コーラ提供の企画ネット番組)のパーソナリティーも務めた。 1997年4月からは「クロマルのPowerRadio」を日曜夕方にスタートし、那覇中心の沖縄ローカル番組とは違い、出身地である山原(沖縄本島北部)中心の地域貢献番組として親しまれた(当時RBCラジオにはこのほかにも宮古島・八重山諸島それぞれを中心とした番組が放送されていた)。 しかし2000年頃に番組終了と同時にラジオから一線を退いた。2004年10月のRBC開局50周年記念特別番組に久々に登場した。 高校時代にボクシングをやっていたこともあり、県出身のプロボクサーである名護明彦を積極的に支援していた。 地域貢献活動のために沖縄のみならず、時々日本本土や海外にも足を運んでいた。 RBCの専属タレントのような形だったため、RBC以外の他局には一切出演しなかった。
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略歴・人物像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 19:46 UTC 版)
父に師事し、1986年に『伊呂波』のシテで初舞台。(当時4歳) 1998年、『釣狐』を披く。(当時16歳)その他、『三番三』、『千歳』、『那須語』、『朝比奈』等を披く。 2007年、東京・福岡・大阪・京都〈忠三郎狂言会〉で『花子』を披く。 2011年、四世茂山忠三郎が亡くなり、忠三郎家当主を継ぐ。 2013年、〈忠三郎狂言会〉での『二人袴』で文化庁芸術祭賞新人賞を受賞。 2017年8月20日、五世茂山忠三郎を襲名。 アメリカ、オーストラリア、マレーシア、東欧公演、ドイツ、オーストリア、フランス等、数々の海外公演にも積極的に参加。 狂言以外では、手話狂言や、新作狂言、コンテンポラリーダンス・ブレイクダンス等とのコラボレーションをはじめ、演劇、司会等幅広く活動をしている。
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略歴・人物像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 00:55 UTC 版)
二松學舍大学文学部国文学科卒業後の1975年に琉球放送(RBC)入社。大学生時代は落語研究会に在籍、入社試験ではそれを生かして小噺を一席したところそれがウケて合格したという。ちなみに同局には箕田和男アナが同じ年だが、こちらは3年後輩である(1978年入社)。 華道の副教授の免状を持っていた。 1970年代後半~1980年代後半にかけ、「ナイトヤングメイツ」や「ラジオジャック」など主に夜の若者向けの番組を担当し、リスナーからの人気も大きかった。「アニメファンタジー」においては「子供は山田田吾作という名前がいい」と言ったことがあり、そこからリスナーたちが探検隊を作るなどして“山田田吾作探し”に奔走したということがあった。 一時期、RBCテレビのオープニング、クロージングアナウンスも務めた。 RBCの局アナにとどまらず、児童教育や地域活動にも積極的に参加。子供たちへの童話の読み聞かせや特技であるオカリナの演奏などを行っていた。中頭地区小学校管楽器フェスティバルの司会など司会業もこなした。 2000年秋に退社後フリーとなったが、RBC以外の他局に出演することはほとんどなかった。 晩年、沖縄県の「地域づくりコーディネーター」としてかかわったほか、亡くなる1ヶ月半くらい前には沖縄市社会福祉協議会主催の童話大賞の審査員を務めていた。 2006年11月17日逝去、享年53。
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