略歴・作品
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「フェオファン・グレク」の記事における「略歴・作品」の解説
フェオファンは東ローマ帝国(ビザンティン帝国)最後のパライオロゴス朝統治下で、コンスタンティノープルに生まれた。同都市でコンスタンティノープル派の成果を充分に身につけた後は、クリミアへ移って働く。1370年ノヴゴロド市から招聘を受け、1395年にはモスクワへ移り住んだ。当時のノヴゴロド公国は、ヴェーチェ(veche)と呼ばれる民会が機能する自治都市で、1478年モスクワ大公国の圧迫に屈し、併合される以前は、東欧の商業、特に毛皮を始めとする手工業の中心地であった。古くは水路によりバルト海、東ローマ帝国、中央アジアを結ぶ交通の要地であったが、12世紀の中頃から周辺のスズダリ、タタール、スウェーデン、プロセイン騎士団などとの抗争が絶えなくなる。新興国モスクワの台頭を許した所以である。このような状況下、文化面での交流も非常に盛んで、一帯にはノヴゴロド派が形成された。フェオファンをはじめとして、その様式は明るい民衆性、正面性、線的性格に特徴をもつ。のちのモスクワ派、ストロガノフ派へ受け継がれるロシア・イコンの伝統の始まりである。特に彼においては、僅かな種類の色による表現において卓越した技量を持ち、作品には深い神学的意図が見られる。 フェオファンは多くの教会の壁や天井にフレスコ画を描いた。その数は数百にも及ぶとされるが、現在彼の壁画が確認できるのは以下の数カ所のみである。 ノヴゴロドの顕栄教会(1378年) モスクワ、クレムリンの生神女誕生教会(1395年) プレオブラジェーニエ聖堂 モスクワ、クレムリンのアルハンゲルスキー大聖堂(1399年) モスクワ、クレムリンの生神女福音大聖堂(アンドレイ・ルブリョフ、およびプロホルとともに)(1405年) 板絵イコンも同様に手がけている。しかしながら、歴史史料によれば、フェオファン後期の作とされるものの真正性については学術上の活発な論点となっている。最近まで、フェオファンは伝統的に以下の有名な板絵イコンの作者とされてきた。 『ドンの生神女』(Our Lady of the Don、1380?) 『生神女就寝』(Dormition of the Virgin Mary、1392) 『童貞女マリヤと授洗イオアン』(The Virgin Mary and John the Baptist、モスクワ、クレムリンの生神女福音大聖堂のイコノスタスより。1405?) 『主の顕栄』(The Transfiguration、1408)
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略歴・作品
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「ヴィクトル・ハルトマン」の記事における「略歴・作品」の解説
幼くして孤児になり、サンクトペテルブルクの有名な建築家であったおじに引き取られた。ペテルブルク美術アカデミーに学び、当初は挿絵画家として活動した。ノヴゴロドのロシア開基一千周年の記念碑をデザインしており、これは1862年に除幕式が行われている。1864年から1868年まで外国に旅して、水彩画や鉛筆画を残した。ハルトマンは、伝統的なロシアのモチーフを自作にとり入れた最初の美術家の一人である。 スターソフによってバラキレフのサークルに紹介されてから、1870年よりムソルグスキーの親友となる。1873年、39歳で動脈瘤により夭折したのち、1874年の2月から3月まで、約400点の遺作が母校ペテルブルク美術アカデミーに展示された。 ムソルグスキーはこれに触発されて、ピアノのための組曲『展覧会の絵』を作曲した。現在、この展示のほとんどの作品が散逸している。 1991年、NHKと團伊玖磨によりムソルグスキーの楽曲をハルトマンの絵に同定させる試みがなされた(NHK、NHKスペシャル「革命に消えた絵画 - 追跡・ムソルグスキー『展覧会の絵』」1991年。)が、学術的に精密な手続きがとられたとは言い難いという批判もあり、議論の余地がある。 なお、この番組に基づいたと思われるストーリーが、細野不二彦の漫画『ギャラリーフェイク』に収録されている。
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