生い立ちからムーランルージュ新宿座までとは? わかりやすく解説

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生い立ちからムーランルージュ新宿座まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 08:41 UTC 版)

高輪芳子」の記事における「生い立ちからムーランルージュ新宿座まで」の解説

本名山田 英(ひで、または英子とも)といい、高輪 芳子芸名である。1915年大正4年)、憲兵下士官山田覚吾を父として慶尚北道尚州生まれた。父は職業柄転勤多く、幼い彼女も父の任地である尚州東京南満州転々としていた。 1925年大正14年)春、一家は覚吾の新たな任地である佐賀県移り住み同年秋に長崎県移転した乾燥した満州風土違って湿気の多い内地気候芳子体質悪影響及ぼし翌年には軽い胸部疾患との診断受けて1年間休学勧められた。このときの病状は後に小康得ている。 芳子病弱な体質は父覚吾譲りのものであった。覚吾はその後陸軍退職して病気療養努めていた。しかし覚吾は、1929年昭和4年5月3日大刀洗飛行場に近い故郷42歳死去した芳子女学校入学のために福岡移っていた母さだ子は、覚吾の葬儀済ませると急遽2人東京に行くことにした。母と娘落ち着き先は、東京市淀橋区柏木現在の新宿区北新宿四丁目付近)の借家であった。覚吾が遺した恩給わずかだったため、さだ子は毎日のように職を求めて歩き回った生来歌を好んでいた芳子は、音楽学校への進学希望していた。そのためには女学校課程修了する必要が生じたことによって、昭和高等女学校通学する日々送っていた。 当時昭和高等女学校は自由で明る校風だったといい、芳子はこの学校気に入った。彼女は文学耽溺し愛読書石川啄木詩集ゲーテの『若きウェルテルの悩み』、そして夭折少女詩人清水澄子遺稿集『さゝやき』であった中でも『さゝやき』は後々まで彼女の生死に関する思想影響及ぼし、やがて死への願望を持つようになった。彼女の口癖は「私も十九厄年で死ぬんだわ」というものだった1930年昭和5年5月芳子松竹楽劇部の5期生となり、舞台人としてキャリア始まった面接応募動機に話が及んだとき、「お父さん死んでお母さん一人です。ですから、あたしの手お母さん養って孝行したい思います」と答えている。このとき、楽劇部の試験官東京市電停留所から思いついた「高輪芳子」という芸名与えている。美しい声の持ち主だった彼女はすぐに頭角現し、「松竹楽劇部の歌を一人背負って立っていたプリマドンナ」などと高い評価受けた。ただし芳子1人物思いにふけることを好み楽屋奈落近く薄暗がりにいることが多かったと伝わる。 松竹楽劇部での当たり役1932年昭和7年5月開かれた歌舞伎座での公演『ベラ・フランカ』での歌い手役で、当時スター野里子の代役として舞台に立ち、レビューファンから好評博した。しかし、松竹楽劇部は「松竹少女歌劇」と改称し方針転換し声楽専科設けて声楽スター養成することになった。このとき本格的な声楽教育受けていなかった彼女は、将来に不安を覚えたといわれる芳子病弱な上、家庭にも問題抱えていた。彼女は実母のさだ子を「継母ではないか」と疑い親し人々言いふらしていた。それは父覚吾と母の婚姻届芳子出生から3年経過した1918年大正7年3月10日出されていたためであったという。その上さだ子は、芳子婚約者ある日大学医学生井川四郎不倫関係に陥っていた。 井川は、柏木借家が女2人不用心だからと置いた下宿人であった。彼は細面美男子だったというが、内気煮え切らない性格持ち主だった。やがて井川芳子恋愛関係になった芳子1932年昭和7年)の春、不注意から揮発油こぼしたために両足大腿部にやけどを負ってしまった。 芳子がやけどを負って大久保病院担ぎ込まれ事態陥ったとき、井川は母さだ子とともに献身的に看護努めた最初1か月ほどは生死にかかわる容体であり、療養期間は4か月及んだ井川は、退院後の歩行おぼつかない芳子抱き上げて劇場階段上り下りしていた。 芳子復帰果たしたものの、療養によるブランク影響大きかった。彼女の不在中、ムーランルージュ新宿座から引き抜かれてきた小林千代子芳子代わりに人気獲得していた。そんな彼女に追い打ちをかけたのは、母さだ子と井川の裏切りであった井川は、芳子死に赴く十数日前に母さだ子とともに出奔していた。芳子はこの顛末楽屋友人打ち明け「あんな男は大嫌い!」と言って死の願望まで口走るほどであったその後彼女は法政大学学生岡倉祐のもとに走ったが、このとき母さだ子は半狂乱の体で彼女を連れ戻している。 芳子同年9月末の舞台バクダット盗賊』での楽人最後の舞台として松竹去った。この公演中に彼女は2回倒れたことがあり、しかも血を吐きながらも歌い続けていたほどであったその後まもなく浅草公園オペラ館レビュー団「ヤバン・モカル」に加入して10月末までそこで舞台立った芳子ムーランルージュ新宿座加入したのは、同年10月31日のことである。ムーランルージュ新宿座は、1931年昭和6年12月開館した新興劇場であった浅草から新宿移った理由は、いまだ歩行が困難で劇場への往復タクシーを使わざるを得ない女にとって、ムーランルージュ新宿座柏木自宅に近いことが好都合なためであった。さらにギャラについても、ムーランルージュ新宿座の方が多かったムーランルージュ新宿座では『ペチカの歌』などを歌い、その美声ファン人気獲得した。しかし芳子は、ムーランルージュ新宿座12月興行12月6日)を最後に姿を消した12月興行での『ペチカの歌』は、彼女の死後もその歌声同輩たちの語り草になるほどの名演であったという。12月6日午後3時芳子化粧前(鏡台のこと)を綺麗に片づけ愛唱していた音楽全集4冊を友人永井智子贈り「私、一週間休ませてもらうの」と言い残してムーランルージュ新宿座を後にした。

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