生い立ちから三菱重工時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 02:55 UTC 版)
両親とも教師。父・芳磨は広島県庁の体育主事で、日本体育協会の仕事もしていた。また、産業報国会のメンバーでもあり1945年、太平洋戦争末期に単身広島市へ転勤の後、原爆投下の1ヶ月前に産業報国会の東京本部に転勤、このため被爆を免れた。県庁の同僚はほとんどが亡くなった。父親はこれを「自分は生かされた」運命と信じ、終戦後街をうろつく原爆孤児を引き取り、広島湾・似島に似島学園を設立した。森兄弟もこれに伴い似島で育った。兄弟で子供の頃からサッカーに熱中し、修道中学、修道高校と進んだ。健兒は、1953年、広島修道高校1年の時、国体で韮崎高校を自身の決勝ゴールで降し優勝。ハードタックルで有名で、小さな選手を三回転させて吹っ飛ばしたという逸話が残っている。翌年1954年、同大会準優勝。1956年、慶應義塾大学経済学部進学。慶應義塾大学ソッカー部で1年時に天皇杯優勝、2年時準優勝に貢献。4年時には主将を務めた。 1960年卒業後、慶應の1学年上の二宮寛に特別枠で三菱重工業に誘われたが断り、経済学部推薦で三菱入社。まだ社員の同好会だった三菱重工業サッカー部(現浦和レッドダイヤモンズ)に入部はするが籍を置いただけ。産業エンジンの営業の社業を主とした。ところが1965年日本サッカーリーグ(JSL)創設で部員が足らず、無理やり選手登録された。この頃の三菱サッカー部の年間部費は10万8000円。サッカーボールを30個買ったら底をついた。このため選手としてよりサッカー部の環境改善に奔走。1967年二年で現役を引退した後は社業と並行し、二宮寛監督を支えるサッカー部コーチと自らマネージャーを買って出て、他チームに先んじて練習環境の改善、練習時間の確保、後援会作りなどに奔走した。これらはアマチュアリズム全盛時代に於いて画期的であり、その成果は、弟・孝慈、杉山隆一、横山謙三、片山洋、落合弘らを擁し1971年天皇杯初優勝、1973年JSL・天皇杯二冠獲得で結実した。 1974年、三菱操業100周年の記念事業の命をうけ、三菱養和会の総合スポーツクラブ(巣鴨)を建設。「地域密着型総合スポーツクラブ」を32億円をかけて造るという、当時としては非常に先駆的な施設で、森はここを三菱グループ社員だけの福利厚生施設にせず、地域住民にも門戸を開いて少年サッカー教室、水泳教室、体操教室などをスタートさせた。また、ここで現在のなでしこジャパンの源流とも言える第1回全日本女子サッカー選手権が開催された他、全国ミニサッカー選手権(現・日本フットサル連盟)や全国中学生選抜サッカー大会など多くのサッカー大会が開催され、またここから多くのJリーガーを生んだ。後年、Jリーグの目指した地域に密着した総合スポーツクラブを巣鴨の地で、Jリーグが発足する20年近く前に立ち上げた。
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