生い立ちからスターリン時代まで
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「ミハイル・スースロフ」の記事における「生い立ちからスターリン時代まで」の解説
1902年11月21日、ロシア帝国シャホブスコエにて、小作農の家庭に生まれる。1918年に地元のコムソモール組織に加入し、貧困救済委員会のメンバーとなる。コムソモールで約3年間活動した後、1921年にロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。1928年、プレハーノフ記念モスクワ国民経済大学を卒業する。さらに1931年に共産主義アカデミーを卒業した。同アカデミーでは、スースロフが後に共産党の理論家として活躍する素地を形成した。卒業後、ソ連共産党中央統制委員会に入り、NKVDの高官として1930年代のヨシフ・スターリンの大粛清に参画し、レフ・トロツキー、ニコライ・ブハーリン、グリゴリー・ジノヴィエフ一派を粛清した。1937年にロストフ州党書記、1939年にスタヴロポリ地方党第一書記を歴任し、少壮の党官僚として昇進を重ねる。第二次世界大戦時には、スターリンの指令の下、チェチェン人、イングーシ人などのカフカース地方の諸民族をカザフに強制移住させた。1944年にドイツから奪回したバルト三国の1つであるリトアニアに共産党リトアニア議長として入り、再度の社会主義化に着手すると同時に、約6万人のリトアニア人を「リトアニア民族主義者」の烙印の下、シベリアに送った。第二次世界大戦が終了すると、スースロフは再びイデオロギー分野に戻る。1946年に共産党中央委員会宣伝部長、1949年に共産党機関紙『プラウダ』編集長、1950年にマルクス・レーニン主義研究所所長を歴任した。1947年のコミンフォルム結成や、1948年から1949年にかけてヨシップ・ブロズ・チトー率いるユーゴスラビアに対するコミンフォルムによる制裁に大きな役割を果たした。そして1947年には党中央委員会書記、1952年に政治局員に選出された。スースロフはスターリンの信頼を得るに至り、1948年には中央委員会を代表してレーニン没後24周年記念演説をすることを任された。1950年6月には最高会議代議員に選出された。
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