生い立ちからグループ活動まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 23:19 UTC 版)
「ビリー・ジョエル」の記事における「生い立ちからグループ活動まで」の解説
ナチスから逃れるためにドイツ南部からスイスを経てアメリカに亡命した、アシュケナジム系ユダヤ人ハワード・ジョエル(1923〜2011)を父親に、宝石商を営むイギリス系ユダヤ人ハイマン(Heiman or Hyman)家の娘、ロザリンド・ハイマン(1922〜2014)を母親に、ニューヨーク市ブロンクスで生まれてロングアイランドの新興住宅地で育つ。 ジョエル家はユダヤ系だがユダヤ教に無関心(non-observant)で、親子ともユダヤ教徒ではない。 父はクラシック音楽のピアノ演奏に長けており、ビリーも母の要求で幼時にピアノを習い始めた。スポーツよりも音楽に興味があり、少年時代はいじめられて自衛のためにボクシングを習った。短期間、アマチュアボクサーとして試合に出場して22勝の戦歴を重ねたが、24回目の試合で鼻の骨を折られて断念した。 14歳の頃にバンドのエコーズに参加した。ヒックスヴィル高校で学んだが、バーでピアニストとして働いていたために英語の単位を落とし、中退した。「俺はコロンビア大学に行くんじゃなくてコロムビア・レコードへ行くんだから高卒の資格なんか必要ない」と言い放ち、実際にコロムビア・レコードと契約した。中退から25年後の1992年、ビリーは同校にエッセイを提出して卒業資格を認定された。 ミュージシャンとして、故郷のロングアイランドを拠点に活躍したハッスルズのメンバーとして活動した後、彼と共にグループ内で活動していたドラマーのジョン・スモールと、ハードロック・ユニットのアッティラを結成して1枚のアルバムを発表するが、鳴かず飛ばずで結局解散する。アルバム・ジャケットでは長髪のビリーを確認できる。当時彼は鬱病に悩まされており、極度の神経衰弱から精神病院に入院している。心の問題は、大ヒットを出してからも彼を悩ませた。ソロで成功してからは、前作が100万枚売れても、次作が70万枚にとどまると、彼は鬱状態になったという。
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