生い立ちから10代 ─個の形成期
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「吉川霊華」の記事における「生い立ちから10代 ─個の形成期」の解説
東京府湯島に佐藤一斎晩年の門人で、昌平坂学問所の助教や、御書院番兼御納戸を勤めた儒者・吉川辰夫(忠苞、号・澹斎)の三男として生まれる。家は吉川元春の末流で、七代前に江戸幕府に召されて御家人になったとされ、霊華の祖父・大江忠尚は勘定組頭まで出世して旗本になっている。父は維新後、一時深川八幡社の神官を務めた後、「橘香塾」という私塾を開き、子弟を教育していた。 幼少より、詩文、画作に優れ神童と言われた。小学校を4年で辞め、漢学は父から仕込まれたものの、以後学校に通うことはなかった。かわりに、教養豊かな家庭環境や、父の蔵書を手当たり次第に読む程の読書好きと相まって独学的な傾向を育む。後にも小遣いや画料も残らず本代にかわったという。明治16年(1883年)8歳の時、近所の遊び友達の父・楊洲周延に浮世絵の手解きを受け、「延景」の画号を受ける。明治22年(1889年)画の修行のかたわら書家中根半嶺に書を修め、「半谷」の号を受ける。翌年、父の知人で狩野晏信の子、狩野良信から狩野派を習う。一時橋本雅邦や、次兄に連れられ洋画家の小山正太郎にも師事するが、いずれも長続きしなかった。明治27年(1894年)頃、小石川白山下の南隠禅師に参禅、一説に霊華と号したのはこの頃だという。
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