生い立ちからクリーム以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 16:27 UTC 版)
「ジャック・ブルース」の記事における「生い立ちからクリーム以前」の解説
イギリスはスコットランドのラナークシャー郡ビショップブリッグスにて、音楽好きな労働階級一家の次男として生まれる。 4歳の時、左翼運動家だった両親が活動の規制を受けない暮らし向きの良い新天地を求めてカナダ行きを決行し一家で移り住むが、幼い彼の他は期待に反して心労が絶えず、ついには当時の赤狩りが決定打となって2年ほどで帰国。ブルース家はそれまで以上の困窮に陥ってしまう。 度重なる引っ越しのため友人がおらず、カナダ訛りの英語で同級生にからかわれ孤独な生活を送りながらも、母や兄と同じく聖歌隊に所属していた彼は、6歳頃母親に促され、地元スコットランドの歌のコンクールに出場して、吐き気を催すほど緊張しながらも何度か賞をもらったこともあった。 当時イギリスで旋風を巻き起こしていたロックンロールにはとりたてて興味をそそられなかった彼は、ラジオから流れるバッハやシューベルトなどのクラシック音楽を愛聴しながら、ジャズピアノを弾く父と兄の影響もあり、10歳にはピアノで即興、作曲をするなど早くも才能を発揮するようになる。 11歳頃、自在にハーモニカを操る彼を見た学校教師に見出され、母親の勧めもあって、音楽教育に熱心なベラハウストン・アカデミーに進む。当初コントラバスを専攻する予定が、コントラバス教師が体が小さいと苦言を呈したため、やむをえずチェロを選んだ。また、この頃、弦楽四重奏曲を書いたが音楽教師には不評だったという。 向上心に燃えた彼は、ベラハウストンに通いながら奨学金を得て王立スコットランド音楽演劇アカデミーで作曲を学ぶようになるものの、次第にモダン・ジャズ・カルテットやセロニアス・モンクなどのモダン・ジャズに傾倒するようになっていた彼は形式ばった指導内容に反発を覚え、アカデミーと対立し17歳でドロップアウト。在学中には既にダンスホールでダブルベースを弾いて稼いでいた。 間もなく地元やその近辺でミュージシャンとしての活動を本格化させた彼は、一時イタリアの米軍基地で働いた後、1962年18歳の時ロンドンに降り立つ。当時在籍していたトラッド・ジャズ・バンドに飽き飽きしていたジャックは、通りかかったクラブのバンドに無理言って飛び込み参加を要請して見事難曲を弾きこなし、皆を驚嘆させる。そのバンドのメンバーには、後のグラハム・ボンド・オーガニゼーションで活動を共にするディック・ヘクストール=スミスとジンジャー・ベイカーがいた。 1962年にピアニストのマイク・テイラー、ジンジャー・ベイカー、グレアム・ボンドらとドン・レンデルのジャズ・グループに参加する傍ら、アレクシス・コーナーのブルース・インコーポレイテッドにも参加。1963年になるとR&B系のホンク・サックスを主題とするグレアム・ボンドのコンボ、グレアム・ボンド・オルガニゼーションで頭角を現す。グループにはジンジャー・ベイカー、ディック・ヘクストール=スミスや一時期ジョン・マクラフリンらが加わっていた。4ビート・ジャズとブルースをミックスしたサウンドはモッズにも影響を与え、ブルースのブルース・ハープによる演奏等で注目を浴びる。しかし若さ故、演奏スタイルのエゴからブルースとベイカーがお互いの楽器を破壊するなどしたあげくに関係が悪化し、グループを離れることとなる。 後にビージーズで大成功を収めるロバート・スティッグウッドのマネージメントでソロ活動を開始し、1965年ブルースはエレクトリックベースに持ち替えてジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズに参加する。後に共にクリームを結成することになるエリック・クラプトンとはこの時期に出逢った。1966年、マンフレッド・マンに約3ヶ月在籍し同年夏のシングル「プリティ・フラミンゴ」が全英No.1ヒットしている頃、ポール・ジョーンズの後任リード・ボーカルであるロンドン育ちのオランダ人、ミカエル・デ・アボ(英語読みはマイケル・ダボ、マイク・ダボ)、そしてベース担当となるクラウス・フォアマンに後を任せ、エリック・クラプトンとのコラボレーションによるパワーハウスを経てクリームへと活動を移して行く。
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