生い立ちからジャーナリスト時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 00:40 UTC 版)
「岩淵辰雄」の記事における「生い立ちからジャーナリスト時代まで」の解説
宮城県出身。早稲田大学文科を中退。1928年から自由通信社、国民新聞、読売新聞、東京日日新聞の政治記者。その後は政治評論家として雑誌『中央公論』・『改造』で執筆活動を行った。国民新聞時代以来、馬場恒吾に師事した。 岩淵は1936年3月から反統制派の新聞記者として知られていた。その年彼は憲兵隊に呼ばれ、2・26事件をめぐる状況や、統制派の中国侵略計画について批判的な記事を書くことを禁じられた。同年9月までには、彼は中国は華北において対日長期消耗戦を行う用意があると確信するようになり、1937年には、近衛文麿に説いて総理就任を固辞させ、日本の侵略の責任をまともに軍部に負わせようとしたが、果たせなかった。その一方で岩淵は早くから皇道派を使って統制派を追放することを唱え続けていた。彼の見るところ、皇道派は陸軍内部で主な対抗派閥であるばかりでなく、軍は政治に関与せずの原則を掲げ、かつ反ソ反共思想であるという点で、彼と同じく「自由主義的」価値観を持っていた。
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