理研の嘱託としての業績とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 理研の嘱託としての業績の意味・解説 

理研の嘱託としての業績

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 15:06 UTC 版)

長島乙吉」の記事における「理研の嘱託としての業績」の解説

秩父鉱物採集の縁で東京帝国大学理学部化学教室木村健二郎知遇を受けるようになった1929年昭和4年)頃木村紹介理化学研究所飯盛里安知り合った1936年希元素鉱物知識見込まれ理化学研究所飯盛研究室嘱託として迎えられた。この時のいきさつについて長島自著の中で次のように述べている。 飯盛先生との間には種々話が進み理研嘱託とされた。飯盛研究室の私の仕事は「本邦希元素鉱物探査研究委嘱するとのことであった。私にとってはこんな適材適所はなくできるだけ御奉公したいと考えた。 それ以後終戦まで長島飯盛良きアシスタントとして本領発揮した。その年の11月飯盛研究室員たちは長島協力得て福島県伊達郡川俣町飯坂水晶山希元素鉱物のやや大き鉱床発見した。この鉱床からわが国では新産となるイットリア石トロゴム石テンゲル石リンウラン鉱発見した。さらに、後に阿武隈石と命名された新鉱物発見した。この鉱床の特徴は、直径20メートルくらいの大きな石英団塊があって、周囲地層との接触部に長石密着した大きな黒雲母発達していることである。当時石英業者採掘していたが、不要な黒雲母廃棄されていた。前述の諸鉱物はこの黒雲母堆積の中から見出された。この鉱床ではフェルグソン石イットリア石トロゴム石の量が多かったその後福島県石川町周辺露頭で、地元の人たちの協力得て大規模な開掘を行なってコルンブ石緑柱石サマルスキー石モナズ石ゼノタイムなどを採集した地元の人たちとの交渉契約苦情の対応など、めんどうなことはすべて長島1人こなした飯盛研究室員は1922年大正11年)から日本全国のみならず日本統治下の朝鮮にも度々足を運び希元素鉱物探索採集をしていた。当初の目的学問的興味だったが、1937年日中戦争の勃発とともに軍需物資としての希元素鉱物必要性高まってきたため目的資源調達変わってきた。日本国内には資源がほとんど無いことが分かっていたので、主として朝鮮調査行った1937年秋、飯盛研究室員の谷川浩、同研究室員で飯盛里安長男飯盛武夫とともに朝鮮咸鏡南道永興郡仁興面を訪れ砂金残砂から黒モナズ石採取した黒色モナズ石それまで知られていなかった。1938年5月飯盛武夫とともに朝鮮忠清北道丹陽郡丹陽九尾理および全羅北道茂朱郡赤裳面斜山里訪れそれぞれの場所からコルンブ石採取した同年秋、再び飯盛武夫とともに忠清南道洪城郡訪れ砂金殘砂から3種のニオブタンタル鉱物採取した分析結果、それらはタンタルユークセン石、イットロタンタル石、フェルグソン石であることが判った。前2者は日本初産であった1942年長島景山義夫とともに飯盛研究室から朝鮮派遣され東南海岸線鉄道の無い襄陽邑から浦項邑に至る約280キロメートル砂床(現韓国江原道襄陽郡襄陽邑から慶尚北道浦項市)を徒歩調査した。このときは何も成果得られなかった。1943年には洛東江上流砂床(現韓国慶尚北道醴泉郡醴泉邑ほか)を調査して有望な地帯見つけたので、慶北栄州に近い豊基に選鉱場設け、そこからモナズ石供給するようにした。1944年には技術院総裁科学動員協会会長多田礼吉中将希元素鉱物調査目的として組織した満蒙調査団一員として加わり海城県三台地帯(旧満州国奉天省海城県第十白石三台溝)でフェルグソン石ユークセン石など新産発見した同年、軍の後援のもと海月鉱山黄海道延白郡海月金山里、現北朝鮮黄海南道延安郡)の調査開発行った原子爆弾原料ウランを得る目的で)。この時は陸軍航空本部総務部長川島虎之輔少将陸軍整備局 原富少佐航本 矢作十郎少佐朝鮮軍参謀部安部少尉同行した。この調査思わしい結果得られなかった。 1944年昭和19年9月、同11月1945年昭和20年5月3回渡って第8陸軍技術研究所によって福島県石川町周辺希元素鉱床調査が行われた。この調査飯盛と共に長島参加した。これら一連の調査の目的は、主として原子爆弾原料ウラン資源確保であった。たくさん残されている公文書には、一刻も早く原子爆弾完成させなければならないという軍部のあせりが表れている。 詳細は「日本の原子爆弾開発」を参照 1945年春、飯盛会長務めていた理研希元素工業都内の3工場すべてが空襲被災し操業できなくなった。これらの工場では軍需用の希元素製品製造原爆材料ウラン抽出精製行っていた。生産継続するため軍需省指示で、福島県石川町工場移転したこれに伴い飯盛石川町移住した長島家族置いて単身石川町移った。しかし、この工場はほとんど稼働しないうちに終戦になった長島終戦時玉音放送飯盛一緒に聞いて平和の鐘鳴りましたよ」と呟いたという。

※この「理研の嘱託としての業績」の解説は、「長島乙吉」の解説の一部です。
「理研の嘱託としての業績」を含む「長島乙吉」の記事については、「長島乙吉」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「理研の嘱託としての業績」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「理研の嘱託としての業績」の関連用語

理研の嘱託としての業績のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



理研の嘱託としての業績のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの長島乙吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS