理研希元素工業株式会社の設立と石川町への移転
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「飯盛里安」の記事における「理研希元素工業株式会社の設立と石川町への移転」の解説
ニ号研究における飯盛の役割はウラン鉱からイエローケーキ (重ウラン酸ナトリウム) を得て、濃縮を担当する仁科研究室に供給することであった。濃縮とは、天然ウラン中にわずか 0.7% しか含まれていない核分裂性のウラン235 (当時はアクチノウランと呼ばれていた) を取り出すことである。仁科研究室ではそのために理研構内に熱拡散分離塔を作り基礎実験を始めたが間もなく米軍の爆撃によって破壊され何も成果を上げることができなかった。1944年暮れごろ、撃墜したB29から回収した東京の地図に理研が攻撃目標として記されていた、という話も伝えられている。 希元素製品の生産研究は戦争の進展と共に一層促進され、1941年には理研希元素工業株式会社が設立され、作業場も本郷工場、足立工場、荒川工場に拡大された。原料黒砂も朝鮮だけでなく、1942年以降はマレー半島の砂錫選鉱の残砂でアマンと称する重砂を取り寄せてこれを処理した。1945年にすべての工場が空襲によって被災し、操業不能になったので、軍需省からの指示により全工場機能を福島県石川町に移すことになった (足立工場は被災しなかったという記述もある)。この地が選ばれたのは日本三大ペグマタイト産出地であり、少量ながらサマルスキー石、モナズ石、ゼノタイムなどの含ウラン鉱物が産出したためである。これらが俗にウラン鉱と呼ばれることがあるがウランは主成分でなく、微量しか含まれていない。戦局の悪化により、外地からの原料の調達もままならず、国内の資源に頼らざるを得なかった。 理研希元素工業扶桑第806工場 福島県石川町立歴史民俗資料館提供 工場の移転に伴い飯盛一家も石川町に疎開することになり、準備の最中4月13日の空襲で自宅も荷物もすべて焼失してしまった。一家はとりあえず練馬区に住む長女の家の隣の空き家に仮住まいし、生活に必要な最小限の家財を整えて6月末に出発した。一家は7月9日に石川町に着き一時旅館に逗留した後、借家住まいを始めた。空襲の様子は仙台に住む次男の飯盛昌三・郁子夫妻宛の手紙に詳しく記されている。 理研希元素工業株式会社の移転先は、鉱山師・丸野内鉄之助がジルコン量産のため建設していた「日本ジルコン鉱業研究所石川鉱山」で、完成直前に軍需省の命令で強制的に理研希元素工業に委譲させられた工場である。これが理研希元素工業扶桑第806工場となった。東京から設備類を運び、移転は5月にはほぼ完了した。 この工場では東京から運んだ朝鮮産とマレーシア産の黒砂を比重選鉱機と磁力選鉱機によってモナズ石、ジルコンその他に分離し、モナズ石をボールミルで粉砕して化学処理する。これより生産される希土類元素化合物、トリウムはそれぞれ軍需用に発送された。ウランはこの工場でも採取されたが地元産のウラン鉱 (サマルスキー石、フェルグソン石等) の量は微々たるもので、原料にはならなかった。
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