理研希元素工業株式会社の設立と石川町への移転とは? わかりやすく解説

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理研希元素工業株式会社の設立と石川町への移転

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 13:46 UTC 版)

飯盛里安」の記事における「理研希元素工業株式会社の設立と石川町への移転」の解説

ニ号研究における飯盛役割ウラン鉱からイエローケーキ (重ウラン酸ナトリウム) を得て濃縮担当する仁科研究室供給することであった濃縮とは、天然ウラン中にわずか 0.7% しか含まれていない核分裂性ウラン235 (当時アクチノウラン呼ばれていた) を取り出すことである。仁科研究室ではそのために理研構内熱拡散分離塔を作り基礎実験始めた間もなく米軍爆撃によって破壊され何も成果上げることができなかった。1944年暮れごろ、撃墜したB29から回収した東京地図理研攻撃目標として記されていた、という話も伝えられている。 希元素製品生産研究戦争の進展と共に一層促進され1941年には理研希元素工業株式会社設立され作業場も本工場足立工場荒川工場に拡大された。原料黒砂朝鮮だけでなく、1942年以降マレー半島砂錫選鉱の残砂でアマン称する重砂を取り寄せてこれを処理した1945年すべての工場空襲によって被災し操業不能になったので、軍需省からの指示により全工場機能福島県石川町に移すことになった (足立工場被災しなかったという記述もある)。この地が選ばれたのは日本三大ペグマタイト産出地であり、少量ながらサマルスキー石モナズ石ゼノタイムなどの含ウラン鉱物が産出したためである。これらが俗にウラン鉱呼ばれることがあるウラン主成分でなく、微量しか含まれていない戦局の悪化により、外地からの原料調達ままならず国内資源に頼らざるを得なかった。 理研希元素工業扶桑第806工場 福島県石川町歴史民俗資料館提供 工場移転に伴い飯盛一家石川町疎開することになり、準備最中4月13日空襲自宅荷物もすべて焼失してしまった。一家とりあえ練馬区に住む長女の家の隣の空き家仮住まいし、生活に必要な最小限家財整えて6月末に出発した一家7月9日石川町着き一時旅館逗留した後、借家住まい始めた空襲様子仙台に住む次男飯盛昌三・郁子夫妻の手紙に詳しく記されている。 理研希元素工業株式会社移転先は、鉱山師・丸野之助がジルコン量産のため建設していた「日本ジルコン鉱業研究所石川鉱山」で、完成直前軍需省命令強制的に理研希元素工業委譲させられ工場である。これが理研希元素工業扶桑第806工場となった東京から設備類を運び移転5月にはほぼ完了した。 この工場では東京から運んだ朝鮮産とマレーシア産の黒砂比重選鉱機と磁力選鉱機によってモナズ石ジルコンその他に分離しモナズ石ボールミル粉砕し化学処理する。これより生産される希土類元素化合物トリウムそれぞれ軍需用に発送された。ウランはこの工場でも採取されたが地元産のウラン鉱 (サマルスキー石フェルグソン石等) の量は微々たるもので、原料にはならなかった。

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