藤原不比等
(淡海公 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 06:25 UTC 版)
藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿・政治家。諡号は淡海公(たんかいこう)で近江国に封じられた。正史以外で文忠公を記す史料もある。
注釈
- ^ 大嶋は中臣金の甥であるが比較的早い段階で天武天皇に登用され、天武10年の帝紀編纂の責任者の1人として名を連ね、額田王の再婚相手であったとする説もある。
- ^ なお、これと同時に紀氏・石川氏の娘も天皇の嬪となっている。
- ^ 高島正人は鎌足が藤原姓を授かったのは1代限りであり、不比等ら一族が藤原を名乗ることが許されたのは八色の姓施行後の天武天皇14年(685年)頃とする説を唱えている。その説を採ると鎌足の没後、暫く藤原氏は中絶していたことになる[4]。
- ^ 史は姓(かばね)である。
- ^ 『藤氏家伝』によると鎌足は呂尚の著書とされる『六韜』『三略』を愛読したという。
- ^ 『尊卑分脈』『賀茂系図』による。ただし、近藤敏喬『宮廷公家系図集覧』では、年代が合わないとして小黒麻呂の祖父・鴨蝦夷の女に比定している。
出典
- ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
- ^ 薗田香融「護り刀考」(関西大学民俗学会『伝承文化研究』創刊号、1964年。のち薗田『日本古代の貴族と地方豪族』(塙書房、1992年)所収)、上山春平『埋もれた巨像』(岩波書店、1977年)など
- ^ a b 川崎晃「藤原不比等-その前半生について-」(三田古代史研究会 編『法制と社会の古代史』慶應義塾大学出版会、2015年)ISBN 978-4-7664-2230-6
- ^ 高島正人「藤原朝臣氏の成立」(初出:『政治経済史学』第164号(1980年1月)/所収:同『奈良時代の藤原氏と朝政』(吉川弘文館、1999年)
- ^ 保立道久『かぐや姫と王権神話』(洋泉社、2010年、ISBN 978-4-86248-600-4)121-124頁。
- ^ 保立前掲書、123頁。
- ^ 遠藤慶太「入唐僧貞恵と藤原鎌足」(初出:篠川賢・増尾伸一郎 編『藤氏家伝を読む』(吉川弘文館、2010年)/所収:遠藤『日本書紀の形成と諸資料』(塙書房、2015年)) ISBN 978-4-8273-1272-0)
- ^ “藤原不比等と百済系田辺史との関係”. web.archive.org (2019年3月31日). 2022年10月14日閲覧。
- ^ 『続日本紀』による。
- ^ “奈良・平城京跡の邸宅 有力貴族の屋敷か 敷地6万1000平方メートル”. 毎日新聞 (2019年7月19日). 2019年7月20日閲覧。
- ^ “歩くなら 影の実力者、藤原不比等の邸宅があったとされる地へ”. 奈良県. 2019年7月20日閲覧。
- 1 藤原不比等とは
- 2 藤原不比等の概要
- 3 姓名について
- 4 住居
- 5 外部リンク
淡海公と同じ種類の言葉
- 淡海公のページへのリンク