中金堂の概要
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※各作品の国宝・重要文化財指定日は後出の「国宝・重要文化財指定年月日」の節にまとめて記載する。 中金堂(ちゅうこんどう)は興福寺伽藍の中心となる仏堂(金堂)で、後にできた東金堂・西金堂と区別するため中金堂と呼ばれている。『興福寺流記』(こうふくじるき)の金堂条には和銅3年(710年)、淡海公(藤原不比等)の建立とあるが、この和銅3年は平城京遷都の年である。『帝王編年記』には和銅7年(714年)に興福寺の供養を行ったとあり、実際には、和銅3年の遷都前後に金堂の建立が始まり、和銅7年頃までに完成したものとみられる。いずれにしても、中金堂が興福寺の諸堂の中で最初に建てられた堂であることには変わりない。 中金堂は平安時代から江戸時代までの間に、治承4年(1180年)の平重衡の兵火を含め、前後7回焼失し、その都度再建されている。最初の焼失は永承元年(1046年)の大火で、この時は北円堂を除く興福寺の主要建物がことごとく焼失した。康平3年(1060年)と嘉保3年(1096年)にも中金堂、講堂などが焼けている。治承の兵火後は建治3年(1277年)に中金堂、講堂などが焼失、嘉暦2年(1327年)に中金堂、講堂、西金堂、南円堂などが焼失。その後4世紀近くは被災しなかったが、享保2年(1717年)の大火では中金堂、講堂、西金堂、南円堂などが焼失。中金堂は文政2年(1819年)、篤志家の寄付により、仮堂として再建された。 『興福寺流記』に引く「宝字記」によると、奈良時代の中金堂には、本尊の丈六釈迦如来像を中心に、脇侍の薬王・薬上菩薩像、十一面観音像2体、四天王像が安置されていた。また、これらとは別に弥勒浄土変(弥勒仏の浄土を表す群像)が新旧2具安置されていた。『扶桑略記』治暦3年(1067年)条によると、永承の大火後に復興された中金堂には、釈迦如来、薬王・薬上菩薩、十一面観音2体、四天王8体、弥勒浄土変が安置されていた。13世紀前半頃、すなわち治承の兵火後の成立とみなされる興福寺曼荼羅図(京都国立博物館蔵)の中金堂の部分の図を見ると、堂内は中央に釈迦如来像と薬王・薬上菩薩像、東側に十一面観音像2体、西側に弥勒浄土変の群像がそれぞれ安置され、四天王像は釈迦如来の周囲に4体、これとは別に須弥壇の四隅に4体が立っている。 文政2年再建の中金堂は仮堂であり、老朽化が進んでいたため、昭和49年(1974年)に薬師寺の旧金堂を中金堂裏手に移築して仮金堂とした。文政再建の中金堂はその後取り壊されている。 2018年に落慶した新・中金堂には、中央に本尊釈迦如来坐像、その左右に薬王・薬上菩薩立像、須弥壇四隅に四天王立像が安置される。釈迦如来像は江戸時代末期、文化8年(1811年)の制作である。薬王・薬上菩薩像はもと西金堂本尊釈迦如来像の脇侍として造られたもので、鎌倉時代の作。四天王像は元々東金堂か北円堂にあったもので、その後南円堂に移され、2017年に落慶直前の中金堂に移された。鎌倉時代の作である。
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