歴史と変遷
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「コーリ・スペッツァーティ」の記事における「歴史と変遷」の解説
複合唱様式は、聖マルコ大寺院の聳え立つバシリカの特異な建築様式から生じた。向かい合った聖歌隊席の間で起こるディレイ効果に気づいた作曲家たちが、便利な特殊効果としてそれを用い始めたことが発端である。とりわけ近代的な指揮法が発達する以前では、遠く離れた複数の合唱隊に、同時に一つの音楽を演奏させることは無理だったので、たとえば1540年代に同寺院の教会楽長を務めたアドリアン・ヴィラールトのような作曲家は、アンティフォナのような交唱様式によって問題を解決し、向き合った聖歌隊に次々に歌わせ、しばしば楽曲のフレーズに対比をもたらした。このステレオ効果に人気があることが分かると、たちまちその他の作曲家もその発想を模倣し始め、聖マルコ大寺院だけでなく、その他のイタリア中の大聖堂にも採用された。 だが部分的に、ルネサンス音楽からバロック音楽への移行期を決定付けている。別々の集団が交互に歌うという発想は、次第にコンチェルタート様式へと発達し、さまざまな楽器や声部の明示の仕方において、コラール・カンタータやコンチェルト・グロッソ、ソナタといった別々の楽種へと分かれていった。 複合唱様式の発展のピークは、1580年代後半から1590年代にかけてであり、その頃の聖マルコ大寺院の教会楽長はジョゼッフォ・ツァルリーノであったが、首席作曲家はジョヴァンニ・ガブリエーリであった。ジョヴァンニ・ガブリエーリは、具体的に楽器編成を特定した最初の作曲家であり、大人数の吹奏楽を起用している。また、強弱法の指定やエコー効果・音色効果の発展にも着手し、このためにガブリエーリは有名になった。聖マルコ大寺院の壮麗でよく響く音楽は、この頃にヨーロッパ中に広まり、おびただしい数の演奏家がヴェネツィアを訪れ、同地の音楽を聴き、研究し吸収して、学んだものを自国に持ち返ったのである。とりわけドイツは、数々の作曲家がヴェネツィア様式に地域的な修正を加えて使い始めたが、複合唱様式による作曲はその他の国にも浸透し、たとえばスペインではビクトリアが、この手法によって数多くのミサ曲を作曲している。 1603年以降、聖マルコ大寺院におけるすでに相当な装備――オーケストラ、独奏者、合唱――に、通奏低音が加えられ、バロックのカンタータの成立に向けて遥かな道を歩み始めた。聖マルコ大寺院の音楽は、一時期、下降線を辿り、音楽の評価は過去のものとなり、コンチェルタート様式に取って代わられた。1612年にモンテヴェルディが同寺院の教会楽長に任命され、音楽の水準を高い段階に引き戻したものの、複合唱様式はすでに過去の遺物であった。コンチェルタート様式の音楽が、その後のバロック音楽の標準になったのである。
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歴史と変遷
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枢機卿の起源は、5世紀の教皇がローマに在住する司祭・助祭のあるものを自らの顧問団に任じたことであるとされる。その後、ローマ教区が拡大し、ローマ周辺にローマ教区に属する司教区が設けられると、その司教たちも枢機卿団に加えられた。これらが司祭枢機卿、助祭枢機卿、そして司教枢機卿のルーツである。当初の目的を果たすため、枢機卿はローマとその近郊から選ばれるのが通例であったが、教皇の権威が増していく中で、ローマ以外の地域からも枢機卿が選ばれるようになっていった。 教皇は、初めから枢機卿団によって選出されていたわけではない。古代においては教皇はローマ市民によって選ばれていた。中世に入って教皇の選挙権は枢機卿団のみが持つというシステムが構築されていった。西方教会の歴史の中で、司教団にこの権限をゆだねようという動きが出たこともあったが、結局実現しなかった。 中世に入って、枢機卿団が教皇宮廷の貴族のような色合いを持ち始めると、枢機卿は信者の男性であれば誰でも任命されうるものとなり、聖職者でない者も枢機卿団に加わっていた。たとえば16世紀の著名な枢機卿レジナルド・ポールは司祭叙階を受けるまでに18年以上も枢機卿職を務めていた。逆に、イングランドとフランスでは、宰相あるいは首席閣僚を枢機卿が務めていた時期があった。たとえばイングランドのトマス・ウルジー、フランスのリシュリューやマザランがそれにあたる。 現代では最低限の条件として司祭であることが必要とされており、通常は司教団から任命される。司祭が枢機卿に任命される場合は任命後に司教叙階を受けることが多いが、最近の例では2001年に枢機卿に任命されたイエズス会士アヴェリー・デュレスが枢機卿任命時に司祭であったが、高齢を理由に司教叙階の免除を願い出てゆるされている。 13世紀初頭にはわずか7人しかなかった枢機卿団であるが、16世紀に入って急速にその規模が拡大したため、シクストゥス5世の時代に枢機卿団の人数に70人という枠が設けられた。内訳は6名の司教枢機卿、50名の司祭枢機卿、14名の助祭枢機卿である。20世紀にいたるまでこの制限は守られていたが、ヨハネ23世はこの制限を解除し、枢機卿団を増員した。ついでパウロ6世は教皇選挙の有資格者を使徒座空位発生日時点で80歳未満の枢機卿に限り、その人数は120人までという制限を設定した。これは必然的に80歳未満の枢機卿の定員である。 以後、有権枢機卿の任命はこの120人という枠を念頭に置いて、その欠員を補充するために数年に一度のペースで任命が行われるようになった。ただし枢機卿団の年齢構成を考慮してか、120人を上回ることも何度か発生している(新たな枢機卿の任命時点で有権枢機卿の人数が120人を上回っても、次回のコンクラーヴェを迎えるまでに80歳以上となって選挙権を失う枢機卿が多数発生するため、有権枢機卿の定員については特に問題はないとされる)。また、この規定を逆手に取って、顕著な功績のあった80歳以上の聖職者の名誉的な枢機卿任命も行われるようになった。 現在の首席枢機卿は、アンジェロ・ソダーノ枢機卿(名誉国務長官)であるが、2007年に80歳を超えて選挙権は失っており、2013年の教皇選挙本番は不参加となった。
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歴史と変遷
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「デジタル・オーディオ・ワークステーション」の記事における「歴史と変遷」の解説
1970年代末に発表された業務用専用機であるシンクラヴィアやフェアライトCMIがDAWの起源とされている。
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