歴史と変遷とは? わかりやすく解説

歴史と変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 14:37 UTC 版)

コーリ・スペッツァーティ」の記事における「歴史と変遷」の解説

複合唱様式は、聖マルコ大寺院聳え立つバシリカ特異な建築様式から生じた向かい合った聖歌隊席の間で起こるディレイ効果に気づいた作曲家たちが、便利な特殊効果としてそれを用い始めたことが発端である。とりわけ近代的な指揮法発達する以前では、遠く離れた複数合唱隊に、同時に一つ音楽演奏させることは無理だったので、たとえば1540年代に同寺院教会楽長務めたアドリアン・ヴィラールトのような作曲家は、アンティフォナのような交唱様式によって問題解決し向き合った聖歌隊次々に歌わせ、しばしば楽曲フレーズ対比もたらした。このステレオ効果人気があることが分かると、たちまちその他の作曲家もその発想模倣し始め聖マルコ大寺院だけでなく、その他のイタリア中の大聖堂にも採用された。 だが部分的にルネサンス音楽からバロック音楽への移行期を決定付けている。別々の集団交互に歌うという発想は、次第コンチェルタート様式へと発達しさまざまな楽器や声部の明示仕方において、コラール・カンタータやコンチェルト・グロッソソナタといった別々の楽種へと分かれていった。 複合唱様式発展ピークは、1580年代後半から1590年代にかけてであり、その頃聖マルコ大寺院教会楽長ジョゼッフォ・ツァルリーノであったが、首席作曲家ジョヴァンニ・ガブリエーリであったジョヴァンニ・ガブリエーリは、具体的に楽器編成特定した最初作曲家であり、大人数吹奏楽起用している。また、強弱法指定エコー効果・音効果発展にも着手しこのためガブリエーリ有名になった。聖マルコ大寺院壮麗でよく響く音楽は、この頃ヨーロッパ中に広まりおびただしい数の演奏家ヴェネツィア訪れ同地音楽聴き研究し吸収して学んだものを自国持ち返ったのであるとりわけドイツは、数々作曲家ヴェネツィア様式地域的な修正加えて使い始めたが、複合唱様式による作曲その他の国にも浸透し、たとえばスペインではビクトリアが、この手法によって数多くミサ曲作曲している。 1603年以降聖マルコ大寺院におけるすでに相当な装備――オーケストラ独奏者合唱――に、通奏低音加えられバロックカンタータ成立向けて遥かな道を歩み始めた聖マルコ大寺院音楽は、一時期下降線辿り音楽評価過去のものとなり、コンチェルタート様式に取って代わられた。1612年モンテヴェルディが同寺院教会楽長任命され音楽水準を高い段階に引き戻したものの、複合唱様式はすでに過去遺物であったコンチェルタート様式音楽が、その後バロック音楽標準になったのである

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歴史と変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 13:40 UTC 版)

枢機卿」の記事における「歴史と変遷」の解説

枢機卿起源は、5世紀教皇ローマ在住する司祭助祭のあるものを自らの顧問団任じたことであるとされるその後ローマ教区が拡大しローマ周辺ローマ教区に属す司教区設けられると、その司教たちも枢機卿団加えられた。これらが司祭枢機卿助祭枢機卿、そして司教枢機卿ルーツである。当初の目的を果たすため、枢機卿ローマとその近郊から選ばれるのが通例であったが、教皇権威増していく中で、ローマ以外の地域からも枢機卿選ばれるようになっていった。 教皇は、初めから枢機卿団によって選出されていたわけではない古代においては教皇ローマ市民によって選ばれていた。中世入って教皇選挙権枢機卿団のみが持つというシステム構築されていった西方教会歴史の中で、司教団にこの権限ゆだねようという動き出たこともあったが、結局実現しなかった。 中世入って枢機卿団教皇宮廷貴族のような色合い持ち始めると、枢機卿信者男性であれば誰でも任命されうるものとなり、聖職者でない者も枢機卿団加わっていた。たとえば16世紀著名な枢機卿レジナルド・ポール司祭叙階を受けるまでに18年以上も枢機卿職を務めていた。逆にイングランドとフランスでは、宰相あるいは首席閣僚枢機卿務めていた時期があった。たとえばイングランドトマス・ウルジーフランスリシュリューマザランがそれにあたる。 現代では最低限条件として司祭であることが必要とされており、通常司教団から任命される司祭枢機卿任命される場合任命後に司教叙階を受けることが多いが、最近の例では2001年枢機卿任命されイエズス会士アヴェリー・デュレスが枢機卿任命時に司祭であったが、高齢理由司教叙階免除願い出てゆるされている。 13世紀初頭にはわずか7人しかなかった枢機卿団であるが、16世紀入って急速にその規模拡大したため、シクストゥス5世時代枢機卿団人数70人という設けられた。内訳は6名の司教枢機卿50名の司祭枢機卿14名の助祭枢機卿である。20世紀にいたるまでこの制限守られていたが、ヨハネ23世はこの制限解除し枢機卿団増員した。ついでパウロ6世教皇選挙有資格者使徒座空位発生日時点で80未満枢機卿限りその人数は120人までという制限設定した。これは必然的に80未満枢機卿定員である。 以後有権枢機卿任命はこの120人という念頭に置いて、その欠員補充するために数年一度ペース任命が行われるようになった。ただし枢機卿団年齢構成考慮してか、120人を上回ることも何度発生している(新たな枢機卿任命時点有権枢機卿人数120人を上回っても、次回コンクラーヴェ迎えるまでに80歳以上となって選挙権を失う枢機卿多数発生するため、有権枢機卿定員については特に問題はないとされる)。また、この規定逆手に取って顕著な功績のあった80歳以上の聖職者の名誉的な枢機卿任命行われるようになった現在の首席枢機卿は、アンジェロ・ソダーノ枢機卿(名誉国務長官)であるが、2007年80歳を超えて選挙権失っており、2013年教皇選挙本番不参加となった

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歴史と変遷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 14:52 UTC 版)

デジタル・オーディオ・ワークステーション」の記事における「歴史と変遷」の解説

1970年代末発表され業務用専用機であるシンクラヴィアフェアライトCMIDAW起源とされている。

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