日本におけるエンフィールド銃
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「エンフィールド銃」の記事における「日本におけるエンフィールド銃」の解説
日本で最も初期にエンフィールド銃を導入したのは薩摩藩とされ、薩英戦争後の軍制改革で4,300挺を購入したと伝えられており、輸入された当初はその弾丸の見た目や構造からミニエー銃(Minié rifle)の一種と誤解され、イギリス・ミニエーと呼ばれていた。 1865年のアメリカで、双方で300万もの兵士が戦った南北戦争が終結すると、南北両軍が使用していた大量の軍需品が民間業者に払い下げられた。これらの払い下げ品には、90万丁近くが米国に輸出されていたエンフィールド銃も含まれており、その多くは市場を求めて太平天国の乱が続いていた中国(上海・香港)へ集まった。幕末の日本にも1864年(文久3 - 4年)頃から外国商人らによって輸入され、戊辰戦争では最も広く使用された。 この頃から、フランス製のミニエー銃と区別するために“エンピール銃”・“鳥羽ミニエー”いった呼び名が付けられ、後に発足した大日本帝国陸軍(以下、この節では陸軍と略)ではエンピール銃の呼称が継承された。 当初エンフィールド銃は1挺あたり15両程度で購入されたが、後装式銃器の普及で急速に旧式化したエンフィールド銃の価格は、戊辰戦争の頃から暴落した。同時にスナイドル式銃尾装置によりエンフィールド銃を後装式へ改造する方法が欧米から伝えられ、国内での改造が諸藩や鉄砲鍛冶の間で流行した。 ただし、こうした改造を受けたエンフィールド銃の多くは、側方に設けられたヒンジにより機関部が右方向に開くために、タバコ入れに見立てられ莨嚢式(ろくのうしき)の方式名が与えられたスナイドル銃とは異なり、同時期にベルギーより輸入されていたアルビニー銃(英語版)などと同様に前方に設けられたヒンジにより機関部が前方向に開く方式が使用された。これは前方開放型のアルビニー式がスナイドル式の側面開放型よりも改造が容易であったからに他ならない。スナイドル銃と区別する意味で前開き型には活罨式(かつあんしき)の方式名が与えられ、より正確には前方枢軸型活罨式と呼ばれた。 新生陸軍が発足すると、その歩兵操典に後装式を用いる版が採用された事から、陸軍の主力小銃は全て後装式に統一され、スナイドル銃(金属薬莢式)が主力小銃となり、ドライゼ銃(紙製薬莢式)が後方装備とされた。 廃藩置県後に新政府管理へ移管されたエンフィールド銃は、1874年(明治7年)頃から徐々にスナイドル銃への改造作業が始められていたが、1879年(明治10年)に西郷隆盛を首魁とする私学校徒が鹿児島の火薬庫に残されていたエンフィールド銃を強奪して決起して西南戦争が勃発する。 我が国では、エンフィールド弾とプリチェット弾の両方の存在が確認されており、西南戦争戦跡で多数出土されているが、他にも弾丸長が極端に短い拳銃弾と思われるものが出土している。そして、プリチェット弾の中には、弾丸後端部の裾が著しく薄いものがあり、これは、新政府軍のものと推定されている。 弾丸は、素材の鉛が手に入りにくくなると、錫も使用する様になり、他にも、青銅製や、鉄製の銃弾も存在した。 エンフィールド弾薬包とエンフィールド弾は、東京造兵司で製造され、西南戦争の際には使用されている。エンフィールド弾は、木製のプラグが挿入されており、直径.56インチ(14.5mm)、長さ1.1インチ(27.9mm)、重量は463グレイン(30.06グラム)であり、これは、南北戦争で南部が製造していたエンフィールド弾の基準となる.562インチの弾丸や、.568口径のエンフィールド弾などと寸法が酷似している。 弾薬包は、1859年型エンフィールド弾薬包とは違って、長方形の紙が無く、3枚の紙から構成されており、寸法は、長さ2.64インチ(67cm)、直径.57インチ(14.5mm)、火薬量は73グレイン(4.75グラム)で、弾薬包下部は蝋剤に漬けられている。弾丸底部に空洞のないエンフィールド弾を使用している為、弾薬包下部は紐で絞められている。この事から、この弾薬包の形状は1857年型エンフィールド弾薬包のそれと酷似しているが、弾薬包上部は一枚の紙でしか捻られていない為、構造自体は、クリミア戦争で使用された初期のエンフィールド弾薬包のそれと同じである。 エンフィールド銃で武装した私学校徒らに対して政府軍はスナイドル銃を主力とする鎮台兵を派遣して戦い、連射速度の違いから西郷軍は緒戦から多くの損害を出して圧倒され、日本最後の内戦は前装式銃の時代とともに終焉した。 前装式のエンフィールド銃で戦った西郷軍の鎮圧に莫大な戦費と犠牲を費やした政府は、各地に退蔵されていたエンフィールド銃が不平士族や当時隆盛だった自由民権運動激派に強奪されて同様の反乱が発生する事を恐れ、西南戦争後の1878年(明治11年)から全国各地に残されていたエンフィールド銃を集めてスナイドル銃へ改造する作業を行い、老朽化が激しく改造されずに残された物は軍の射撃訓練用として使用されつつ寿命を迎えて廃棄処分となり、民間へ払下げられる運命を辿った。 民間に払い下げられたエンフィールド銃は、雄猪や熊猟に使える強力な猟銃として長く親しまれ、現代でも地方の蔵の整理中などにエンフィールド銃の残骸が見つかる事が多々ある。 [脚注の使い方]
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