文献上の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/17 02:41 UTC 版)
アンクムは、Ainghem という表記で皇帝オットー2世の977年の特許状に初めて文献に記録されている。 皇帝オットー1世の948年7月14日の文書にある Hasagovue(ハーゼガウ)の Tungheim 集落という地名がアンクムを指しているという説が時々唱えられるが、文献学者の多くはこの説を採用しておらず、有力な根拠によってこれを否定している。ヘルマン・ハルトマンは948年の史料から、アンクムにヴィドゥキントの相続領があったと推測した。この所領は、オットー1世から母親の聖マティルデに贈られた。マティルデは、ハインリヒ1世王の2番目の妻であり、ヴィドゥキントの子孫たるザクセン伯ディートリヒの娘である。彼女は947年に、おそらくヴィドゥキントの廟所であるエンガーに修道院を設立した。ハルトマンは1878年にアンクムの母教会がヴィドゥキントまたはその後継者の創設に由来するという仮説を完全に支持した。マティルデとヴィドゥキントとの血縁関係は、ザクセンの編年史著者コルヴァイのヴィドゥキント(ドイツ語版、英語版)が著した「Res gestae Saxonicae」および「Vita Mathildis reginae antiquior」による。 オスナブリュック司教アルベリヒと前述の特許状に名前が挙げられた Herigis の叔父(または伯父)に当たるヴェーリンブレヒとの間で結ばれた1037年 - 1052年の協定には、アンクムの記載はないものの、後で言及する1239年/1240年の司教領目録を考慮すると、11世紀半ばにはすでにアンクムはオスナブリュッカー・ノルトラントの司教領に属していたと推測される。 1169年、アンクムは Parochia Anchem または Ecclesia Anchem(アンクム教会区)として初めて明記されている。 ダーレン伯ハインリヒ(ミュンスターラント)の1188年の所領録には Tamchem (= t'Amchem) に2つの所領が記載されている。これはおそらく伯の母親で、ヘドヴィヒ・フォン・ラーヴェンスベルクからの相続領であると思われる。彼女は、カルヴェラーゲ伯家出身のオットー1世(1141年または1144年からラーヴェンスベルク伯)の妹であり、この所領はラーヴェンスベルク伯の旧領がオットー1世、ヘドヴィヒを経由してハインリヒに相続されたものと考えられる。1231年、ラーヴェンスベルク伯オットー2世はベルゼンブリュックのシトー会女子修道院創設にあたり、アンクムの土地を寄進した。 オスナブリュック司教アドルフ・フォン・テックレンブルク(ドイツ語版、英語版)の1221年の文書から、アンクム助祭長区とともに聖堂カントライが贈与されたことが判る。1239年から1240年頃の Registrum bonorum mensae episcopalis Osnabrugensis は司教領の詳細について列記しており、その中に Curia Anchem が含まれている(Curia は賦役領地を意味する)。アンクムは1225年の Diploma Henrici Regis Roman. de Gograviatibus Engelberto Ep. にオスナブリュッカーラントに8つある領主のゴー裁判所(ドイツ語版)所在地の1つと記述されている。
※この「文献上の記録」の解説は、「アンクム」の解説の一部です。
「文献上の記録」を含む「アンクム」の記事については、「アンクム」の概要を参照ください。
文献上の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 10:09 UTC 版)
・『日本書紀』雄略天皇13年(469年)九月の歌に「農播拕磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制播 伊能致志儺磨志 柯彼能倶盧古磨」(ぬばたまの かいのくろこま くらきせば いのちしなまし かいのくろこま=ぬばたまの(黒の枕詞)甲斐の黒駒に鞍を着せていたら、間に合わず命がなかっただろう あぁ甲斐の黒駒よ)とある。 ・流鏑馬の起源とされる、6世紀中頃(552年)に欽明天皇が国の内外の戦乱を治めるため、九州豊前の宇佐の地において、神功皇后・応神天皇を祀り「天下平定・五穀豊穣」を祈願し、最も騎射に長じた者に馬上から三つの的を射させた。という事から、この頃には騎馬技術や騎射技術が普及していたものと思われる。 ・『日本書紀』欽明天皇15年(554年)、百済が朝廷と会談して、援軍千人、馬百匹、船四十隻派遣の約束をした記事があり、6世紀中頃にもなると馬を軍事的に海外へ輸出する状況もあった。 ・『日本書紀』推古天皇20年(612年)正月7日条には、「宇摩奈羅麼 譬武伽能古摩」(うまならばひむかのこま=馬ならば日向(南九州地域)の馬)とある。 ・『扶桑略記』養老二年(718年)八月には、「出羽井渡嶋蝦夷八十七人来 貢馬千疋 則授位録」(渡島(佐渡、津軽、北海道など、比定地は諸説あり )の蝦夷が出羽の蝦夷とともに八六人で馬千匹(馬10匹の誤写と考えられる)を貢ぎ、夷と禄を授けられた)とある。 ・『類聚三代格』延暦六年 (787年) 正月二十一日の太政官符によれば、王臣や国司が競って綿や鉄を売って「狄馬」(蝦夷の馬)や「俘奴婢」(俘囚・奴隷)を買い求めるために、国内の「綿」や「鉄」が蝦夷社会に流出してしまうことが問題とされている。 古墳時代では小形馬が主流であり、一部中形馬が存在し、奈良時代になると平城京を中心に中形馬が増加するが、小形馬も地方を中心に依然として残る分布状況であったとみられる(したがって、古代では近畿圏の方が馬の体格は大きい)。
※この「文献上の記録」の解説は、「日本在来馬」の解説の一部です。
「文献上の記録」を含む「日本在来馬」の記事については、「日本在来馬」の概要を参照ください。
文献上の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 07:32 UTC 版)
当社に関する記録は、岡山市西大寺に所蔵される『備前国内神名帳』の「備前國神名帳 國内祝給鎭守諸大明神 百廿五社」では「6104 従五位上 靱屓明神」として記載されている。小神富春書入本では「和名抄、當郡靱負(ユゲヒ)アリ」と冒頭に注釈が入り、長船村と脚注が入っている。岡山県立図書館に所蔵される『備前国内神名帳』の「備前國神名帳 備前國百廿八社神位附神名帳 和氣郡九社」では「6223 正五位下 靱負明神」、「備前國神名帳 合神社一百廿八所」では「6351 靱負神社」と記載が見られる。このうち後者では総社本では「靱負郷長船村座」と脚注が見られる。それ以外にも「備前國神名帳 備前國百廿八社神位附神名帳」では邑久郡十八社、『國内神名位階記』では「國内祝給鎭守諸大明神百廿八社」では「邑久郡座十六社」に挙げられている。 一方で当社は江戸時代の文献には登場しないことから、崇神天皇社の末社だったものが明治維新の復古ブームの中で独立したという考えが『長船町史 民俗編』に記されている。
※この「文献上の記録」の解説は、「靭負神社」の解説の一部です。
「文献上の記録」を含む「靭負神社」の記事については、「靭負神社」の概要を参照ください。
- 文献上の記録のページへのリンク