文献上最も古い「天守」の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 05:41 UTC 版)
「楽田城」の記事における「文献上最も古い「天守」の記述」の解説
小瀬甫庵の『遺老物語(おきなものがたり)』巻八「永禄以来出来初之事」によると永禄元年(1558年)に楽田城中に高さ5メートルほどの壇を築き、その上に二階櫓を構築して中では神仏を祀り、それを殿守(でんしゅ、天守に音が通じる)と呼んだという。楽田城の殿守以前には、1521年の伊丹城、永禄年間には、大和国でも松永久秀が多聞山城や信貴山城で四階造りの櫓を構築したという記録があるが、殿守(天守)とよんだ高層建築が文献上に現れる城としては最も古いとされる。 当時、尾張を支配していた織田信長は、永禄6年(1563年)に居城とした小牧山城(『武功夜話』による)、さらに永禄10年(1567年)に居城とした岐阜城のいずれにも天守に相当するものを築き、さらに天正3年(1575年)から築城した安土城の中央に築いた5層7階の楼閣には天主と命名していることなどからも、天守という名称が尾張から生まれたと考えている学者[誰?]もいるが、安土城や岐阜城の天主を建てた織田信長と楽田城の殿守から、建築の意匠的なセンスが織田氏の血脈としてあったのではないかと西ヶ谷恭弘は言う。また、起伏の少ない濃尾平野では、16世紀半ばまでの他の地域のように山城を築くことが困難であったために平城が発達し、同時に遠方を観測するための櫓が必要となり、こうした背景から天守のような高層建築が発生することとなったと考えられている(天守の起源に関する詳細は、天守を参照のこと)。
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