改進党結成と芦田との対立激化
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「三木武夫」の記事における「改進党結成と芦田との対立激化」の解説
1951年(昭和26年)5月頃から、国民民主党内で自由党の連携派と反対派の対立が始まる。芦田も三木も反対派であったものの、連携派の離党やむなしとする三木に対し、芦田は連携派との妥協を図った。続いて松村謙三、大麻唯男ら公職追放解除者の入党問題が発生した。松村、大麻らは新政クラブを組織しており、国民民主党と新政クラブの合同問題が浮上したのである。三木は追放者の入党に消極的であり中でも大麻の入党に反発した。一方国民民主党は諸派を糾合した新党の結成も目指していて、三木は農民協同党を引き入れようと画策していた。農民協同党取り込みを図るために、新党の宣言に「穏健な社会主義政策をも取り入れ」という文言を認めるかどうかで国民民主党内は紛糾した。結局松村、大麻ら新政クラブと農民協同党はともに新党に参加することになったが、国民民主党の参議院議員の一部は新党に不参加となった。1952年(昭和27年)2月8日、改進党が結成され、総裁は空席とし、三木は幹事長となった。 総裁不在の状態では、幹事長である三木が党運営の主導権を握ることになった。改進党結成直後、芦田は新軍備促進連盟の講演会で演説し、再軍備を目指す国民運動を進めるようになる。一方三木は早川崇、千葉三郎らと福祉国家協会の立ち上げを構想する。このように改進党結成後、三木と芦田の路線の違いが目立つようになって両者はこれまでの協調関係から一変し、厳しい対立を繰り返すようになる。三木と芦田が対立するようになる中で、改進党の総裁に重光葵を擁立する声が急速に高まってきた。重光の総裁擁立に積極的だったのは大麻唯男ら追放解除組であった。革新派は重光の総裁擁立に反発し、三木か北村徳太郎を総裁候補として擁立することになったが、三木が辞退したために北村が総裁候補となった。一方芦田にとっても外務省同期の重光が総裁となれば自らが党総裁となる可能性を無くすことに繋がったが、三木ら左派を抑えるために重光擁立に加わった。三木は芦田の重光擁立を翻意させようと、芦田の昭和電工事件判決確定まで総裁を保留するという案まで提示したが、芦田の重光擁立決意は変わらなかった。また北村も総裁選出馬を断念し、三木も最終的に重光総裁を認めたうえでこれまで通り革新派の主導権維持を図る方が得策であると判断したため、6月13日の党大会で重光が総裁となり、三木は幹事長に留任し、北村は政調会長となった。 新総裁となった重光にとって、最初の課題は総選挙であった。抜き打ち解散による第25回衆議院議員総選挙が1952年(昭和27年)10月1日に行われたが、重光、三木、芦田、大麻といった党内実力者間の足並みが乱れた改進党の選挙結果は望ましいものではなかった。選挙結果を受けて重光総裁は党人事の刷新を決意する。三木幹事長、北村政調会長という陣容では革新派に党運営の実権を握られてしまうため、重光はこうした状態の改善を目指したのである。重光の決意に党の資金調達を担っていた大麻、そして昭和電工事件の一審で無罪判決を受けた芦田らが賛成し、三木幹事長の交代を進めた。大麻は党内革新派の分断を図り、北村政調会長の系列であった川崎秀二を幹事長に推薦した。しかし芦田は川崎幹事長案に反対し、三木も幹事長交代の動きに粘り強く反撃を続けた。結局苫米地義三が三木と協議して翌年2月の党大会まで現執行部留任という妥協案を提示した。芦田はこれに反発するが、総裁の重光は党大会後三木ら役員は再任しないことを条件に妥協案を受け入れる。三木は1953年(昭和28年)に入ると重光に対し、幹事長に清瀬一郎を据える案を提示し、重光は了承した。2月9日の党大会で清瀬幹事長は了承されたが、革新派の川崎を政策委員長にするという人事案に対し、芦田は離党を口にしながら反発した。結局川崎政策委員長案は引っ込められたが、芦田に対して重光も悪感情を抱くようになって孤立化し、大麻の分断工作に遭った三木ら革新派も弱体化したため、大麻の力が増すようになった。 1953年(昭和28年)4月19日、第26回衆議院議員総選挙が行われ、改進党は議席を減らした上に幹事長の清瀬が落選するなど敗北を喫した。しかし吉田茂率いる自由党も大幅に議席を減らし、芦田は改進党、分党派自由党、右派社会党、左派社会党の四派で吉田を首相の座から追い落とし、衆議院議長も四派連合から選出されるよう画策し、三木もその策に乗り気であった。しかし改進党内には社会党、とりわけ左派社会党との連携に反対する意見が強まり、結果として改進党内は右派、左派、中間派の対立が激化する。結局四派連合で衆議院議長、副議長のポストは得たものの、首相については第5次吉田内閣が成立した。改進党内では6月15日に役員改選が行われることになったが、執行部の松村謙三幹事長案に対し三木は竹山祐太郎を幹事長候補に擁立した。結局重光総裁の決定により松村幹事長、竹山副幹事長という人事となり、三木ら革新派は抵抗をするものの次第に党の反主流派に追いやられるようになった。しかし三木は改進党幹事長となった松村との関係が深まることとなり、三木と松村は改進党内、そして保守合同後の自由民主党でも政治的行動を共にするようになる。 三木は1953年(昭和28年)、妻の睦子と平沢和重を伴い、約三ヶ月間、世界各国を歴訪した。三木は海外歴訪の感想を朝日新聞に投稿し、その中で日本の政界が再軍備問題と保守連携問題ばかりがクローズアップされている状況に疑問を呈し、ヨーロッパ諸国では道路、住宅や社会保障といった生活基盤の整備が進んでおり、社会基盤の整備や社会保障を充実させ、国民の生活水準を引き上げることこそが共産主義に対抗する武器となると主張した。三木は自衛軍の創設は認めるものの、再軍備の推進よりも社会基盤の整備や社会保障の充実が国を守る力となるという福祉国家的な考えを持っており、戦争に負け、経済に深手を負った日本の国力からしても再軍備は国土防衛に限定された小規模なものに止まらざるを得ず、その程度の自衛軍のために憲法改正を行う必要があるのか疑問であるとした。 一方改進党は憲法改正の必要性に踏み出すようになり、中曽根康弘は芦田に対し、1954年(昭和29年)1月の第六回党大会の席で憲法改正推進を打ち出したいと訴え、芦田も了承した。また社会党が進めていた憲法擁護運動に対抗し、川崎は憲法改正の国民運動を起こすとの内容の改進党運動方針案を作成するなど、改進党の革新派の多くも憲法改正に賛成となった。しかし改進党の幹部会の席で、三木と鶴見祐輔は憲法改正は大規模な軍拡につながり、脆弱な日本経済の破綻を招きかねないので時期尚早であるとの反対意見を唱えた。 三木は、社会党が唱える非武装路線は非現実的であると批判したが、所属する改進党の改憲路線に対しても護憲と社会保障の重視を訴えた。更に外交では日米関係を機軸とする点については異論はないものの、アジアの水準を高めることが日本を高めることにつながり、アジアを離れて日本は無いと主張してアジア重視の姿勢を打ち出し、東南アジアなどアジア諸国との関係強化を主張した。
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