改革としての篆書復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/21 16:35 UTC 版)
中唐の書道界は、「書聖」として神聖視されていた王羲之およびその息子の王献之、いわゆる「二王」の書風を守ろうとする保守派と、それを打ち破ろうとする張旭などの改革派とが対立していた。特に改革派では韓愈が六朝時代以来の四六駢儷文を否定して古文復興運動を行い、二王の書を「俗書」と痛罵したのが代表的である。 これを受けて顔真卿が「顔法」と呼ばれる独自の書法を確立したのに対し、李陽冰は二王以前、すなわち篆書や隷書の世界に戻る復古主義的な方向に向かい、秦代以来印と碑の額などに使われる以外はほとんど絶えていた篆書による書や石刻を復活させた。それも印章用や装飾用にアレンジされた書体ではなく、篆書の古碑や後漢代に編纂された篆書中心の字書『説文解字』を参照に、秦代に制定された本来の姿を踏まえた書法で書いたのである。 これにより李陽冰は篆書による書作をリードする存在となり、秦代の李斯と並ぶ篆書の名家とされて「二李」との称号を奉られたばかりでなく、三皇五帝時代の蒼頡とまで並べて絶讃され「篆虎」と呼ばれることになった。 李陽冰は、顔真卿と極めて昵懇の仲であった。顔の書いた碑には多く彼が篆額を書いており、顔の代表作である「顔氏家廟碑」の篆額も彼の手になるものである。また2人がそろって張旭の弟子であったという伝説があることからも、その親交ぶりがうかがえる。
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