改革と調所の再評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「改革と調所の再評価」の解説
死後、調所は悪評ばかりが広まり、改革のことは半ば忘れられた状態が続いた。西南戦争後に鹿児島県令を務めた渡辺千秋が調所の改革に着目した。渡辺は西南戦争後の混乱した鹿児島県を立て直すために、調所の行った改革を参考にしようと考えたのである。幕末から明治維新期にかけて反調所派が主導権を握る中で、改革に関わる資料の多くが廃棄されていた。渡辺は稲富家と調所の側近として改革に取り組んだ海老原清煕に対して資料の提出を命じ、渡辺の命に従って調所の孫と海老原は報告書を提出した。しかしその後も調所の改革に対する関心は低いままであった。 明治39年(1906年)5月に鹿児島新聞が「偉人調所」という連載を行ったが、まだ調所の活躍は広く知られることはなかった。大正15年(1926年)に「薩摩藩天保度以後財政改革顛末書」が刊行され、この時海老原清煕の報告書が初めて紹介された。そして翌昭和2年(1927年)に、土屋喬雄が著書「封建社会崩壊過程の研究」の中で調所の改革が学術的に整理された形で公開された。また徳富蘇峰が近世日本国民史雄藩編で調所の改革を取り上げ、薩摩藩の天保改革はようやく世に知られるようになった。 その後海音寺潮五郎著の「西郷隆盛」の中で調所はその活躍が取り上げられ、広く世間にその名が知られるようになった。昭和41年(1966年)には新書版の「幕末の薩摩」が公刊され、まだ悪評がつきまとっていた調所広郷像を改めることに繋がった。
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