改革の中断と廃位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 09:06 UTC 版)
1806年、バルカン半島で徴兵をしにやってきたニザーム・ジェディードは現地のアーヤーンの抵抗を受け(第二次エディルネ事件)、徴兵に失敗した。これにより、セリムの人気は低下し、これを挽回するため改革を嫌う守旧派の人物を大宰相やイスラム長老にせざるを得なかった。1807年2月にはイギリス艦隊がイスタンブール近海に入り、トプカプ宮殿沖に漂着するという事件が発生した(イギリス事件)。イギリス艦隊は数日で撤退したものの、セリムがイエニチェリを殲滅するために送り込んだという噂が町中にが流れた。そして5月にはイスタンブールのイエニチェリにニザーム・ジェディードの軍服を着る命令を出したが、カバクチュ・ムスタファらを中心としたイエニチェリらの反発を受け、反乱を起こされた(カバクチュ・ムスタファの乱)。さらに大宰相府の者やイスラム長老らは反改革派で占められていたため、鎮圧命令を出せず、セリムはやむなくニザーム・ジェディードを廃止したがイエニチェリらの怒りは収まらず、ついにイスラム長老が廃位の法意見書(ファトワー)を出したため、セリムは廃位され、幽閉された。
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