改革の内容と担い手
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 10:15 UTC 版)
「ビッグバン (金融市場)」の記事における「改革の内容と担い手」の解説
1986年10月27日にビッグバンが実施された。内容は主に次の通りであるが、理事会の「最適化」も並行した。 骨子は①売買手数料の自由化、②取引所会員権の開放による銀行資本の市場参加、③ジョバーとブローカーの兼業許可、④株式取引税を1パーセントから0.5パーセントに引き下げ、⑤株式売買にコンピュータを導入し無人化、⑥取引所集中義務の撤廃、である。ビッグバンによってロンドン市場でも現物を移動しない証券取引が行えるようになった。そして機関投資家がニューヨーク市場の規制を逃れてくるようになった。こうしてイギリス企業の姿は消えたままシティが表面上の活況を呈した(ウィンブルドン現象)。事実上、1986年住宅金融組合法(Building Societies Act 1986)も改革の一環であった。かつてモーゲージ貸付は住宅金融組合の専売特許であったが、1970年代と1980年代初期に銀行と競争する目的で二者が相互の市場へ参入できる措置が採られた。1986年住宅金融組合法は無担保貸付の比率を5%まで引き上げることを認めた。1986年金融サービス法(Financial Services Act 1986)も挙げねばなるまい。同法は公社債投資信託などのミューチュアル・ファンド化を認めたほか、ロンドン証券取引所の権限を証券投資委員会(Securities and Investments Board)へ移譲した。 自動気配システム(SEAQ)が導入され、バークレイズ、リーマン・ブラザーズ、UBSが代表的なマーケットメイカーとなった。ビッグバンでシティへ参入してくる機関投資家をとりまとめているのは、カストディアンの集合体ともいうべきユーロクリアとセデル(現クリアストリーム)であった。これら国際証券集中保管機関の取締役員構成を年報に見ることができる。 1987年4月10日現在におけるユーロクリアのそれは次の通り。まずドイツ銀行のロルフ会長(Rolf-E. Breuer)、アムロ銀行のテオ(Theo M. T. Adriaansens)、東京銀行の「ふじた・なおのり」(Naonori Fujita)、ケス・デパーニュグループのブリュック(Corneille Brück)、クレディ・スイスのハンス(Hans Peter Sorg)、ファースト・ボストンのステファン(Stefan Imboden)、ベルギー総合会社のマーク(Marc Bayot)、キダー・ピーボディ(Kidder, Peabody & Co.)のモハメド(Mohoamed S. Younes)、メリルリンチのホフマン(Hansgeorg B. Hofman)、モルガン・ギャランティ・トラストのトーマス(Thomas H. Fox)、ピクテ銀行のウォルター(Walter Staub)、スカンジナビスカ・エンスキルダ・バンケンのロルフ(Rolf A. Hallberg)、ソシエテ・ジェネラルのステファノ(Stefano Colonna)、スイス銀行コーポレイションのケスラー博士(Hans-Conrad Kessler)、そしてウッド・ガンディー(Wood Gundy)のイアン(Ian S. Steers)であった。 1991年9月13日現在におけるセデルは次の通り。シティコープのハンス会長(Hans H. Angermüller)、スイス・ユニオン銀行(現UBS)のアンドレ・リュシ(André Lussi)、モルガン・スタンレーのスコット(Scott G. Abbey)、クレディ・リヨネ(現クレディ・アグリコル)のミシェル(Michel Camoin)、シティバンクのイアン(Ian Cormack)、バークレイズのケネス(Kenneth Garrod)、アムロ銀行のマリヌス(Marinus Huizer)、サンパオロ銀行(Istituto Bancario San Paolo)のジョゾ(Alfonso Jozzo)、ルクセンブルク国際銀行のジャン(Jean Krier)、スイス・ユニオン銀行のジョセフ(Josef Landolt)、日本興業銀行の名取正(なとり・ただし)、野村証券の荻野玲(おぎの・あきら)、ボン・ウント・シュミット(Bonn & Schmitt)のアレックス(Alex Schmitt)、チェース・マンハッタンのマイケル(Michael Urkowitz)、最後にドレスナー銀行のカルト(Kart Weinhofer)であった。 関連法の施行後、マイケル・ミルケンが逮捕された。1991年の国際的企業買収アドバイザー・ランキング首位はゴールドマン・サックスであった。ビッグバンから4-5年で、イギリスのジニ係数はおよそ0.05の幅で跳ね上がっていた。 ロンドン市場のレポ市場について。ビッグバン以降、米国債・ドイツ国債が比較的取引量を増していたが、英国債は独占市場としての規模にとどまっていた。英国債の空売りは、ギルト・エッジ・マーケット・メーカーにだけ認められていた。英国債を担保にしたレポ取引は、彼らと密接な銀行間取引市場(SEMBs)を通さなくてはならないといった規則もあった。イングランド銀行のレポ貸出は、季節的な資金不足を均すだけだった。1996年1月まで、英国債の利子所得に対しては原則25%の源泉徴収税が課せられていた。しかし国債決済機構(Central Gilts Office)と、機構加盟機関をカストディアンとする適格者(Eligible Person)は、その英国債取引を税制改正で一般勘定から区別されることで(Star Account)、源泉徴収を免れることができるようになった。国債決済機構には国内大手清算銀行に加え、ユーロクリアやセデルも加盟していた。クリアリングは独占されたのである。取引は(国際証券集中保管機関の方針で)、銀行だけでなく一般機関投資家も英国債のレポ市場に参加できるようになった。1997年にはイングランド銀行が日常的にレポオペをするようになった。2001年現在では日中の即時グロス決済で流動性を供給する目的でもレポオペを活用している。1998年には英国債の利子所得について源泉徴収が全く適用されなくなったので、区別勘定をもたない機関投資家がレポ市場に経営面でも参加しやすくなった。2001年5月末において、イギリスの英国債レポ市場規模は1200億ポンド(21兆円)を超えている。 ユグノー出身のマーチャント・バンクであるカザノヴ商会(Cazenove)は、19世紀からビッグバン後にわたり英国金融の機関化に貢献してきたことを評価され、2004年JPモルガン・チェースの傘下となった。
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